希望が閉ざされたら、本を開こう。

生き方を問い直す読書感想文

『今日が人生最後の日だと思って生きなさい』(小澤竹俊著、アスコム、2016年)

「あした地球が滅びるとしたらどうする?」

誰もが一度はこんな話題で盛り上がったことがあるだろう。

小学生の妄想ネタのようでもあるが、なかなかバカにできない問いである。だって、地球があした滅亡しなくても、自分はあした死亡するかもしれないのだから。

本書は、ホスピス病棟などで2800人以上の患者さんの「看取り」に関わってきた医師による、「死に方」の側から「生き方」を捉えようとした本である。

本書のタイトルにもなっている、「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」という言葉には、きっと多くの人が賛同するだろう。

ところが、「よーし、これから毎日、『今日が人生最後の日だ』と思って生きるぞ!」と思っても、それは決して長続きしない。

たいていすぐに、「明日やればいっか……」モードに戻ってしまい、「俺ってダメだなあ……」となるのがオチである。

著者は次のように言う。

「常に『今日が人生最後の日だ』という意識を持つことで、日々の生活を大切にできそうな気がしますが……。残念ながら、それは簡単なことではありません。人が非日常を抱えながら日常を生きることは、ほぼ不可能なのです。……非日常というのは、とても過酷で疲れるものです。……『死』というものを意識しながら生活し続けるのが難しいのもそのためであり、『常に緊張感を持って、毎日を生きる』というのは、あまり現実的ではありません」(22〜24頁)

「それ、はやく言ってよ〜!!」という声が全国から聞こえてきそうだ。

小澤さんによれば、必要なのは「日常と非日常、両方の大切さを知り、使い分けていく」ことであり、「今日が人生最後の日だ」と想像するのは、ときどきでかまわないという。

この発見だけでも読んだ甲斐があるというものだが、いやいや、他にも大切なことがたくさん書かれている。

たとえば次の文章などは、思わず我が身を振り返らずにはいられない。

「死を目前にすると、比較の価値はまったく意味を持たなくなります。……『他人よりもいい暮らしがしたい』『他人よりも幸せな人生を送りたい』と必死で努力してきた人が、病気であること、残された時間が短いことがわかったとたん、将来の夢もアイデンティティも失い、『自分の人生は何だったんだろう』と悩み始める。そんなケースを、私は今まで、何度も見てきました」(35頁)

しかし彼はこのような状況を決してネガティブには捉えない。続けてこう述べている。

「人が『自分にとって本当に大切なもの』『本当に自分を支えてくれるもの』に気づくのは、まさにそのときです」(35頁)

小澤さんが主張するのは、そのような「学び」の大切さである。

「苦しみをいかに解決するか、乗り越えるか、ではなく、苦しみから何を学ぶか。それこそが人生において、もっとも重要なことなのではないかと、私は思います」(94頁)

他にも、「自分は、こうでなければならない」「人に頼らない」「努力すれば報われる」という信念を持って競争社会を闘い抜いてきた人ほど、人生の最終段階でアイデンティティを失ってしまう、など、考えさせられる言葉がたくさんある。

また、苦しんでいる人が自分の苦しみを打ち明けられる相手は「暇そうな人」だから、できるだけ暇そうな雰囲気を作っている、という言葉にも実に共感させられる。

これについては、僕も参加した東日本大震災をテーマにした座談会で、宮崎県にある昌竜寺の住職、霊元丈法さんが同じようなことを話されていた。

「あんまり坊さんは忙しくしてはいけないんだろうな。みんな坊さんにお忙しいなか申しわけありませんと言うけれど、住職というのは、本当はいつでも待っていなくてはいけないんだろうなと思うんだけれども(笑)」(「座談会 3・11大震災が浮き彫りにした曹洞宗寺院の弱点とその対策 第2回」『仏教企画通信』第30号)

住職もやはり、人の苦しみに寄り添う仕事なのである。

「死に方」を考えることは、「生き方」を考えることにほかならない。

後悔しない人生のために、いや、後悔を受け入れられる人生のために、大きなヒントを与えてくれる一冊である。

今日が人生最後の日だと思って生きなさい

今日が人生最後の日だと思って生きなさい

『これでいいのか 東京都北区』(鈴木士郎・昼間たかし編、マイクロマガジン社、2015年)

「日本の特別地域 特別編集」シリーズの一冊。

思っていた以上にしっかり調査されていて、いわゆる「街歩きガイドブック」などとは一線を画す本格的な内容である。

今回は東京都北区編ということで、「赤羽」「十条」「王子」「滝野川地区」「田端」の地域ごとに、その「真実の姿」が検証されている。

北区と言えば「赤羽」が特に注目されているが、この本ではそれ以上に「十条」の評価が高い気がする。

「ホントの北区を知りたいならば、十条においでよ。……ここに住む住民たちの営みこそが本当の北区の原風景を見せてくれると断言できるのだ」(14〜15頁)

「赤羽=北区の中心だなんて寝言は寝てからいうべきだ。ホントにディープな北区の中心は十条にあり。学生から老人までさまざまな世代の人々が安さに溢れる商店街に集う。古いけれども最新でもある不思議な町・十条」(75頁)

と述べられているように、十条が北区を象徴する存在として描かれている。

特に「古いけれども最新でもある町」というのは本当にそのとおりだと思う。本のタイトルは「これでいいのか」となっているが、十条に関しては「このままでいい!」ようだ(笑)。

「変化を求めることを拒否し、永遠の昭和を探求し続けているのが十条エリアの最大の特徴だといえる」(14頁)

「十条は、家賃や物価だけではなく、住民も空気も『やさしい』のである」(77頁)

特に十条銀座商店街の記述は目を見張るものがある。

「東京では十条に似た雰囲気のマイナーだけれど地元民の利用が絶えない商店街というのは、ほかの地域にも点在している。……けれども、十条が特徴的なのは地元民で賑わう商店街のはずなのに、妙な活気のあるところだ」(79頁)

「都内最強の商店街十条銀座」(80頁)

「これまで都内各地の商店街をリスペクトしている本シリーズだが、十条では驚きを隠せなかった。アベノミクスの不発による景気後退など、どこ吹く風の活気に満ち満ちているのだ」(80頁)

また本書では、「十条に押し寄せる再開発の嵐」(84頁)についてもふれていて、「この再開発計画が相当尋常ではない」ことを指摘している。

「駅前に高層マンションを建設する計画にしても、マンションバブルの真っ最中である2015年現在だから具体性を感じるものの、2020年以降も、マンション需要は続くかといえば大いに疑問だ」(85頁)

「この再開発計画。ともすれば廃墟しか残らない投機性を感じる」(85頁)

さまざまな地域の商店街の衰退・発展を調査し検証してきた彼らが言うのだから、耳を傾ける価値は十分あるだろう。

一度壊してしまったものは、二度と元には戻らないのである。

とはいえ、本書はすべての再開発に反対しているわけではなく、「正しい再開発」を提案している。

赤羽西地区の桐ヶ丘、赤羽台団地については、赤羽駅西口方面がすでに「今風」の街であるため、むしろ「バリバリの『再開発』をやってしまうべき」だと主張している。

一方で「しかし、赤羽東部や十条は違う」という。

赤羽駅東口や十条の商店街は、さんざん強調してきたように、すでに都内、いや国内でも『貴重』な『文化遺産』となっている。夕方になると自転車に乗った主婦が買い物をし、学校帰りの子どもたちが鶏肉屋の揚げ物に行列を作る。そんな『幸せな』景色が残っている街は、はたしていくつ現存しているのだろうか」

「北区は『今のごちゃごちゃした旧態依然な街並みをどう保存していくか』に軸足を置くべきだ」

そして最後に次のように締めている。

「北区は、イメージの薄い特徴のない街だといわれてきた。しかし、実際の北区は、この苦しいデフレ時代に、金はなくても特徴的で、さらに『安く』『幸福度の高い』生活をする、非常に賢い『デフレファミリー』が暮らす街だ。あえていうなら『まったり』こそが、北区の『イメージ』といえるだろう。これからの北区は、現在のまったりイメージを大切にし、それに軸足を置いた『正しい再開発』を考えるべきだ。単純な金儲け優先の開発では、北区民の心をつかむことはできない」(130頁)

日本の特別地域 特別編集70 これでいいのか 東京都北区

日本の特別地域 特別編集70 これでいいのか 東京都北区

 

『HERE ヒア』(リチャード・マグワイア著、大久保譲訳、国書刊行会、2016年)

同じ部屋、同じ場所、同じ空間に、「過去」「現在」「未来」を併存させる。

ふつうの感覚ではありえないこの事態を疑似体験させてくれるのが、この不思議な本『HERE ヒア』である。

しかもその時間幅は、「紀元前30億50万年から22175年まで」と、私たちの日常生活における時間意識をはるかに超えていく。

本書の中には、

「あの人はずっとああだったんだから」

「今までいつもこうだった 変わらないんだわ」

というセリフが登場する。

だがこれほどの時間幅の前では、このセリフの中にある

「ずっと」

「いつも」

「変わらない」

という言葉の枠組みが崩壊し、すべてが刹那的な色彩を帯びる。

だがこのような「過去」「現在」「未来」の併存を、私たちは日常生活の中で、実は無意識的に体感している。

たとえば、父親が自分の子どもの姿を見て、「過去の自分」の姿と重ね合わせる。あるいはその子どもを通して、「未来の社会」のイメージを感知する。

このとき、父親と子どもの関係の中で、「過去」「現在」「未来」が併存しているのである。

これを僕は「時間様相の共時性」と呼んでいる。

「時間様相」とは「過去」「現在」「未来」のこと。時間における三つの様相のことである。

この「過去」「現在」「未来」が「同時に」存在することが、「時間様相の共時性」である。

これは、ふつうに考えれば論理矛盾である。しかし、意識の中では成立し得る。

私たちは「現在」を生きながら、「過去」と「未来」も同時に生きているのである。

しかしここでの「過去」と「未来」が、ただの抽象的なイメージにすぎないとき、それを意識する自身の存在自体も抽象的なものとして感じられる。

それに対して、先ほど例にあげた父と子の関係のように、「他者を通して感じられた過去や未来」は、それを意識する自身の存在を具体的なものとして感知させる。

この「具体性」こそが、「自分が生きている実感」としての「自己存在感」を、確かなものにしてくれるのである。

本書『HERE ヒア』に登場する部屋は、実際の著者自身の部屋であり、またその内容は、著者自身の家族の歴史が反映されているという。

だからきっとこの本の制作は、彼自身にとって「自己存在感」を確かなものにするプロセスでもあったに違いない。

そして読者もこの本を通して、自分が生きる「現在」がどのような「過去」と「未来」に包まれているのかに思いを馳せずにはいられないだろう。

HERE ヒア

HERE ヒア

 

『天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』(メイソン・カリー著、金原瑞人・石田文子訳、フィルムアート社、2014年)

訳者による説明を引用すれば、本書は、

「過去から現在までの著名な作家、芸術家、音楽家、思想家、学者など一六一人をとりあげて、それぞれ仕事、食事、睡眠、趣味、人づきあいなどにどう時間を割り振っていたかを紹介した」

もの、ということになる。

特に自由業の人々にとっては興味深い読み物としてだけでなく、すぐに役立つ実用書にもなるだろう。

なのでオススメの読み方としては、手の届くところに紙とペンを用意し、「天才たちの日課」を読みながら、自分の日課を考えるのが面白いと思う。

そして自分もその「天才たち」の一人になったつもりで読むのである(笑)。

彼らの日課はまさに百人百様なので、自分に合いそうなタイプをピックアップして、それをベースに「自分の日課」にアレンジしてみるのもいいだろう。

しかしこれを読んで思ったのは、「みんな思ったほど長い時間仕事をしているわけではない」ということだ。

いや、そう書くとちょっと語弊があるかもしれない。

僕らのような凡人からすると、「偉大な成果を残した偉人たちは、さぞ仕事漬けの一日を送っていたのだろう」と思いがちである。

ところが彼らの日課を見てみると、「一日中仕事をしている」というケースはほとんどないのである。

むしろ一日の中にしっかりと自分の「お楽しみタイム」のようなものを確保している場合が多い。

そうすることによって、彼らは仕事を「やり続ける」ことができたのかもしれない。

面白い点を挙げるとキリがないのだが、この本の醍醐味をひとつ挙げるとすれは、「著名な天才」の一般的なイメージと、実際の生活のギャップだろう。

たとえばあの天才作曲家・シューベルトについて、彼の友人の一人はこう語っているという。

「彼は作曲においては並はずれて勤勉で創造性にあふれていたが、それ以外の仕事と名のつくものに関しては、まったくの役立たずだった」

そのせいかシューベルトは、ピアノの個人教授のような仕事を避けていて、「しょっちゅう友人に経済的な援助を頼まなければならなかった」そうだ。

あの音楽室に飾られている大作曲家が、急激に身近に感じられるではないか(笑)。

そしてこの本を読んでかなりイメージが変わった人に、デカルトがいる。

デカルトと言えば「近代思想の父」であり、あらゆるものを「分けて考える」という科学的発想の原点のような人である。

彼が偉大な大哲学者であることは疑う余地がないが、実際には世の中のものごとはあまねくつながっていて、それを分けるのは「人間のアタマの中」にすぎない。

それを現実社会に反映させようとした「負の結果」が、世界規模に及ぶ環境破壊などの形をとって、いまや人間社会を破滅に追い込もうとしている。

その意味で僕はデカルトにいい印象を持っていなかったのだが、この本を読んで、彼のことがちょっと好きになった。

まず、「デカルトは朝が遅かった」らしく、「午前の半ばまで寝て、目が覚めてからもベッドのなかで考えたり、書いたりして、十一時かそこらまでぐずぐずしていた」という。

なんというだらしなさだ!(笑)。

しかも彼はそのだらしなさを肯定的に捉えていたようなのだ。

本書にはこう書かれている。

デカルトは、優れた頭脳労働をするには、怠惰な時間が不可欠だと信じていて、ぜったいに働きすぎないように気をつけていた」

もうこの時点で、デカルトは僕の「友達」になっていた。

ところがである。

そんな生活をしていた彼は、スウェーデン女王の家庭教師として宮廷に招聘されてしまう。

本書では、「デカルトがなぜその招きを受け入れたのかは明らかではない」とされているが、「いずれにせよ、その決断は悲劇をもたらした」のであった。

あの「ぐうたらデカルト」が、「女王への講義を午前五時から行うように」と命じられてしまうのである。

「その早い時間と厳しい寒さは彼にとって過酷だった」

そうして、

「ほんの一ヵ月で病に倒れ……そのまま十日後に息を引き取る」

ぐうたら生活を取り上げられ、早起きを強制されたことによって、あっという間に死んでしまうなんて……。

ぐうたら仲間の僕としては親近感を覚えずにはいられない。

「ぐうたら」から「ぐうたら」を取り上げると死んでしまうのだ。

とはいえ、本書に登場する多くの天才たちは、自身の「ぐうたら」をも折り込みつつ、「決まった時間に必ず仕事をする」ことを課している人が大多数である。

あとは、その仕事の種類によって、仕事のやり方の傾向はかなり違う気がする。

「画家」と「作家」では、一回に続けられる仕事時間はかなり違う気がするし、本書を読む限りでもその傾向が見てとれる。

これから本書を読む人は、そうした「職種の違い」も意識すると、より得られるものが多いのではないだろうか。

いずれにせよ、デカルトが考えていたように、働きすぎるのはやっぱりよくないようだ。

天才たちの日課  クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々

天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々

 

『書を捨てよ、町へ出よう』(寺山修司著、角川書店、2004年改訂版、初版1975年)

全編に漂う、都会の寂しさと閉塞感。

だが、それでも「都会に生きるしかない」人間の、いわば背水の書である。

だからこそこの本は、都会で生きる人間を鼓舞し続ける。

寺山修司の見事なところは、その都会で生きることの「むなしさ」から決して目をそらさなかったことだろう。

その「むなしさ」を見ずに、ただ近代的価値観を肯定し「前向きに生きる」ならば、結局は寺山のいう「画一化されて、機構の部分品化していることに気がつかない」人間への道を辿ることになるだろう。

このような彼の視点は、『私の個人主義』に見られる夏目漱石に通じるものがあるようにも見える。

それはある種の「諦観」と言えなくもない。

彼の主張する「一点豪華主義」も、まずは「消費の仕方」として語られる。

平均化されていく人生に抗うために、あえてアンバランスな消費を推奨する。

だが「消費の仕方=生き方」という価値観そのものが、まさに都会の不文律である。

さらに彼は次のようにも言う。

「社会閉塞への一つの突破口として、『一点破壊主義を』というのが私の提案である」

しかしそれも結局は、

「人間疎外的傾向のあるベルト・コンベアに、ほんの釘であけるような穴でもあけて、少し風通しを良くしてみたらどうか。といった提案」

にすぎない。

彼が見つめた「閉塞感」は、この本の発表から40年以上経った今も存在し続け、ある意味で深刻化している。

「同じ人間が量産されているメカニックな社会機構は、しだいに『自分とは、誰であるか』をわからなくしてしまう」

という彼の言葉は、今この時代に放たれても全く違和感がないだろう。

一方で、その「閉塞感」を打開する動きも出始めている。

現代はこの二つの動きの二極化が進展している時代だと言うことができるだろう。

だが彼が「諦観」をもって受け入れざるを得なかった、都会の「むなしさ」と「人間疎外」を、いったいどのようにして打開することができるというのか。

そのひとつの契機が、まさに寺山修司が「捨てた」もの、すなわち「故郷」である。

近年顕著となっている、若者の田園回帰志向は、いまさら語るまでもないだろう。

寺山は本書の中でこう述べた。

「私は何でも『捨てる』のが好きである。少年時代には親を捨てて、一人で出奔の汽車に乗ったし、長じては故郷を捨て、また一緒にくらしていた女との生活を捨てた。旅するのは、いわば風景を『捨てる』ことだと思うことがある」

高度成長期は「豊かさの享受」として語られてきたが、そのような「獲得の時代」の中で、「捨ててきたもの」に意識を向けているところに、寺山の非凡なセンスがある。

ただ彼はそれを、「もう二度と拾うことのできないもの」として捉えている。

確かにそれは一面において正しい。

しかし現代の若者たちは、その捨てられてきたものを、新鮮な眼差しで捉え直し、再び拾い上げようとしているのではないだろうか。

「故郷」を単純に「田舎」のようなものとして捉えることもできるが、それをもっとゆるやかに「帰りたい場所」と考えたっていいだろう。

それは地理的な場所ではなく、居心地のいい「関係性」そのものかもしれない。

寺山は、「旅するのは、いわば風景を『捨てる』ことだと思うことがある」と言ったが、僕の若い友人は、それとは全く逆の発想を持っている。

彼は自らを「飛脚」と名乗り、どこまでも徒歩で旅をする。そして歩く速度で旅すると、その場所で生きる人々の生活の営みが見えてくる、と言うのである。

そんな彼にとって、風景は「捨てられる」ものではない。「関わるもの」であり、「感じられるもの」である。

寺山の時代、確かに「速度は権力的であった」。

しかしその権力はいまや絶対的なものではなくなりつつある。

速度への信仰が失われたとき、人間はふたたび「共に歩いてゆく」ことができるのではないか。

CMなどで、高齢者がいつまでも元気に自分の夢を追い続けている姿が、理想的な老後として描かれている。独居老人が増えている状況を考えれば、それが生きがいになるという良さもあるのだろう。

だが一方で、「まだ〝自分のこと〟ですか」と思わないでもない。

永六輔作詞の「遠くへ行きたい」という歌がある。

「知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい」

一人になりたいのかな、と思いきや、

愛する人とめぐり逢いたい どこか遠くへ行きたい」

主人公が求めているのは、「知らない街」であり、「知らない人」である。要するに主人公と「関わりがない」存在である。

しかしそうした「関わりのないもの」に希望を見出すことは、とても苦しいことのように思われる。

「知らない街を歩いてみたい」のはわかるけど、自分が生きる街のことはよく知っていた方がいいだろう。

愛する人とめぐり逢いたい」も夢があっていいけれど、愛は既存のものではなく、関わりの中から生まれてくるものではないだろうか。

書を捨てて町に出るのはいいけれど、それが「無事から有事へ」という転換を意味している限り、いずれまた新しい「知らない町」を探さなければならない。

確かに都市は有事の連続によって成立している。けれども、有事を基盤にした社会は持続しない。

都市は例外なくやがて廃墟となる。そして廃墟となった都市は「捨てられる」。

そのような運命を、わざわざ自ら選択する必要はないのである。

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

 

『真剣師 小池重明』(団鬼六著、幻冬舎、1997年)

「本を読むと眠くなる」というのを利用して、読書を睡眠導入の儀式に利用している今日このごろ。

しかしこれがうまくいかないことがある。

言うまでもなく、ものすごく面白い本を読んでしまった場合だ。

こうなると、逆に興奮して眠れなくなってしまう。

そして久々にこのパターンにはまってしまったのがこの本、『真剣師 小池重明』である。

「真剣」とは要するに賭け将棋であり、「真剣師」とはそれを生業にする棋士のことである。

だがこの小説の主人公である小池重明の時代には、もはやそれは生業として成立しなくなっていた。

小池重明は、「最後の真剣師」と呼ばれた将棋の天才であり、実在の人物である。

彼の生涯を見ていると、そうそう「波瀾万丈」などという言葉が使えなくなる。

世間で言われる「波瀾万丈」のほとんどは、本当の「人生の大波」を知らないままに使われているのではないか。そう思えてくるのである。

著者は彼をこう評する。

「人に嫌われ、人に好かれた人間だった。これほど、主題があって曲がり角だらけの人生を送った人間は珍しい」

もちろん人生は比較されるものではないが、彼の生き方はまるで、自身に火をともし燃焼することでしか生きられないロウソクのようだ。

しかし、それが「天才」を持って生まれた人間の宿命だったのかもしれない。

「ひとつの方面に、並み外れた才能をもつ人間は、結局は本人の意志とはかかわりなく、その世界で頭角を現わしていくことになる。しかも、それは本人の幸、不幸とはまるで別の次元である」

と書いたのは、本書の解説をする大沢在昌である。

彼は言う。

小池重明の人生を「壮絶」にしたのは、「この人の才能を知り、その行く末を見届けたいと願った周囲の人々ではなかったか」と。

その意味でも、彼は自身の「天才」に翻弄された人だったと言えるだろう。

小説の中でも、小池自身がそのことを自覚する言葉が登場する。

「その道において報われるかどうかはその人その人のもつ運であって、世の中には立派な仕事をしながら報われない人は大勢いる。人間の生き方というものは報われるか、報われないかに無関係なものだろう」

もちろんこの言葉は、実際には著者である団鬼六の言葉である。

彼は淡々と「悲劇的な」彼の人生を描きながら、おそらく彼を肯定したくてしょうがないのではないか。

それは団が小池という人物を肯定しようとしているのだが、それは同時に、団が人間を肯定しようとしているのだと思う。

なぜなら多くの人が、小池のことを「愚者」であると認めながら、同時に「人間的」であると認めるであろうはずだからである。

この小説には間違いなく「人間」が描かれている。

それは著者である団鬼六と、主人公である小池重明が、人間的な関係によって結ばれていたからにほかならないだろう。

そこには、もはや善とか悪とかいう社会的な価値観が入り込む余地はない。

だから、この小説は、こう締めくくられている。「とにかく、面白い奴だった。そして、凄い奴だった」。

 

「この道より我を生かす道なし、この道を往く」

武者小路実篤のこの言葉が、小説の中に登場する。

「この道」を生きる覚悟を持ちながらも、社会の常識にからめとられて、小さくまとまりそうな自分に嫌気がさしている人は少なくないだろう。

そんな人にこそ、ぜひこの小説を読むことをオススメしたい。

真剣師小池重明 (幻冬舎アウトロー文庫)

真剣師小池重明 (幻冬舎アウトロー文庫)

 

『モンテーニュ エセー抄』(ミシェル・ド・モンテーニュ著、宮下志朗訳、みすず書房、2003年)

本書を読み始めたのは、夏目漱石の『こころ』を読み終えた直後だったのだが、この偶然が、驚きの発見をもたらした。

それは、本書の次の部分を読んだ時のことである。

「実際、悲しみの力が極度のものとなると、魂そのものが大いに驚愕して、その自由な活動がさまたげられる。たとえば、突然にひどく悪い知らせが舞いこんだりすると、われわれは、なにかに抑えつけられて、身が凍ってしまったような気がして、少しも身動きできなくなるけれど、それから悲嘆の涙にくれて、気持ちがゆるんでくると、なんだかすっと解き放たれたような気持ちというか、ゆったりした気分になるではないか」(9頁)

これを読んですぐに思い浮かんだのが、『こころ』の中で、「先生」が「K」の自殺に遭遇した場面である。

「私の目は彼の部屋の中を一目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ちすくみました」(夏目漱石『こころ』角川文庫、2004年、279頁)

「事件が起こってからそれまで泣くことを忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われることができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらいくつろいだかしれません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤いを与えてくれたものは、その時の悲しさでした」(同284頁)

『こころ』の中でも特に印象的なシーンだが、ここでの表現を、上記のモンテーニュの言葉と比べてみてほしい。

漱石の文章に対応する形で、モンテーニュの文章をふたつに分けて比較してみる。

「実際、悲しみの力が極度のものとなると、魂そのものが大いに驚愕して、その自由な活動がさまたげられる。たとえば、突然にひどく悪い知らせが舞いこんだりすると、われわれは、なにかに抑えつけられて、身が凍ってしまったような気がして、少しも身動きできなくなるけれど、」(『エセー』)

「私の目は彼の部屋の中を一目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ちすくみました」(『こころ』)

「それから悲嘆の涙にくれて、気持ちがゆるんでくると、なんだかすっと解き放たれたような気持ちというか、ゆったりした気分になるではないか」(『エセー』)

「事件が起こってからそれまで泣くことを忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われることができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらいくつろいだかしれません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤いを与えてくれたものは、その時の悲しさでした」(『こころ』)

まさに同じことを表現しているように見える。

このことに気づいて、僕は、「漱石モンテーニュの『エセー』を読んでいたのではないか?」と思い、少し調べてみた。

すると案の定である。

五之治昌比呂の論文によれば、

漱石はChubb編纂のモンテーニュ『エセー』の英訳本を留学中に購入し所蔵していた(「図書購入ノート」の259番)」

というのだ(「『吾輩は猫である』の二つの逸話の材源について」『西洋古典論集』2016年、51頁)。

僕の知る限り、このモンテーニュ『エセー』の記述と、夏目漱石『こころ』の「K」の事件の記述の類似性を指摘したものはない。

そうだとすれば、これはけっこうな大発見だと思うのだが……どうだろう(笑)。

もしかすると、若き漱石が『エセー』を読んで、「いつかこの『悲しみ』を、小説の中で表現してみたい」と思っていて、それが実現したのが『こころ』の中でだったのかもしれない。

もちろん、単なる偶然だと言うこともできるだろう。

けれど、もしも漱石が『エセー』を読んでいたのなら、その記憶が潜在意識となって残っていた可能性もある。

いずれにせよ、僕にとってはとても面白い発見ではあった。

さて、肝心の『エセー』の内容にはほとんどふれていないのだが(笑)、ここでこれ以上書くとものすごく長くなってしまうので、今回はこのへんで終えておこうと思う。

「おいおい、どっちかと言えば『こころ』の方がメインになっとるやないかい!」というお叱りが飛んできそうだが、どうかご容赦いただきたい。

その本をきっかけに、別の本の内容が深められていくというのも、読書の醍醐味のひとつではなかろうか。

少なくともモンテーニュは、そういう「自由な読書」「自由な文筆」を寛容に受け入れてくれるような気がする。

モンテーニュエセー抄 (大人の本棚)

モンテーニュエセー抄 (大人の本棚)

 
こゝろ (角川文庫)

こゝろ (角川文庫)

 

『マインドフルネスの教科書 この1冊ですべてがわかる!』(藤井英雄著、Clover出版、2016年)

タイトルのとおり、マインドフルネスの入門書としては最適の一冊。「マインドフルネスとは何か」ということが、実に平易に説明されている。

この本は「スピリチュアルの教科書シリーズ」の中のひとつなのだが、いい意味で「スピリチュアル・スピリチュアルしてない」のだ。だからどんな人でも抵抗なく受け入れることができるだろう。

逆に、「マインドフルネス」というものを極端に霊的なもの、超自然的なもの、あるいは宗教的なものとして捉えている人にとっては(もちろんそういう要素があることは間違いないのだが)、ちょっと物足りないと感じられるかもしれない。

しかし教科書としては必要にして十分な内容なのであって、応用編からは自分の興味関心に従って自由に展開させてゆけばよいだろう。

マインドフルネスの理論だけでなく、日常の中で実践できるエクササイズもわかりやすく紹介されているので、「一回読んで終わり」ではなく、長く付き合っていける本だと思う。

実は僕の知り合いにマインドフルネスのトレーナーがいるのだが、その人が紹介していたエクササイズの中に、この本の内容と同じものがあった。

もしかするとその人も、本書を読んでいたのかもしれない。だとすると、「マインドフルネス業界」(?)でも、すでに定評のある一冊になっている可能性もある。

個人的に興味深かったのは、2013年に発足したという「日本マインドフルネス学会」によるマインドフルネスの定義。

「〝今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること〟と定義する。なお、〝観る〟は、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、さらにそれらによって生じる心の働きをも観る、という意味である」(18〜19頁)

まずこの定義がしっかり腹落ちすれば、それだけでマインドフルネスの本質にかなり近づけるのではないだろうか。もちろん実践抜きには語れないことは言うまでもないけれど。

本書ではさらに、マインドフルネスを次のようにも説明している。

「自分が『今、ここ』で何をしているのか自覚しながら行動すればそれはマインドフルネスです」(166頁)

実にわかりやすい。ともすれば「簡単には説明できないもの」として神秘性の彼方に追いやられがちなその内容を、ここまで平易に表現しているのは実に親切だと思う。

もちろんマインドフルネスの定義は、この本で紹介されているものだけではないし、この本の中だけでも複数の定義が紹介されているのだが、入口はやっぱりわかりやすい方がいい。最初のとっかかりで、「自分には無理だな」「関係ないな」と思ってしまったら、もうそこで道は閉ざされてしまうのだから。

「マインドフルネス」に関心を持って、しかもそれを実践したい気持ちを持っているなら、まず最初に手に取るべき本として間違いないと思う。

それは「この本が絶対的に正しいことを書いている」ということではなく、そこから自由に発展させていく余地を持っているという意味で「開かれた」本だと思うからである。

そしてそれこそ「マインドフルネスの〝教科書〟」にふさわしい資質だと僕は思うのである。

マインドフルネスの教科書 この1冊ですべてがわかる! (スピリチュアルの教科書シリーズ)

マインドフルネスの教科書 この1冊ですべてがわかる! (スピリチュアルの教科書シリーズ)

 

『こころ』(夏目漱石著、角川文庫、2004年)

『こころ』との出会いは、高校の教科書に載っていたものを読んだのが最初であった。おそらく、僕と同年代の人々は大抵そうなのではないだろうか。

それは思春期の若者の心に、鮮烈な衝撃を与えた。教科書の文章というカテゴリーを超えて、僕の心を捉えた。

「自分のことが書いてある」と、僕は本気で思ったのだった。

国語のテストでも『こころ』についての出題があった。当時の僕は国語を最も得意としていたので(算数は散々だった)、その時もかなりいい点数を取った。

しかし国語の先生はその「点数」ではなく、「回答」がすばらしかった、と言ってほめてくれたのである。これがとてもうれしかった。

調子に乗った僕は、「作家になれますかね?」と返した。

その時の先生の、苦虫を噛み潰したような顔は今でも忘れない。

さて、そんな思い入れのある作品『こころ』を、40歳になってから再び読み直したわけである。

しかし多くの文学作品や映画作品がそうであるように、それにふれた時の感動というのは、その作品の出来・不出来以上に、その時の受け手の感受性に負うところが大きい。

その証拠に、「一番好きな作品は何ですか?」と聞かれると、多くの人は、自分が思春期の頃に出会った作品を挙げるのである。

だから僕は『こころ』についてもきっとそうだろう、と内心思っていた。つまり、当時ほど心を動かされることはないだろう、と思いながら読み始めたのであった。

ところがである。

物語が始まってまだ間もない次の部分で、いきなりぐっと胸に込み上げるものを感じた。

「いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだからよせという警告を与えたのである。ひとのなつかしみに応じない先生は、ひとを軽蔑するまえに、まず自分を軽蔑していたものとみえる」

この部分に心を動かされるのは、物語の結末を知っているからかもしれない。それとも、自分自身に重ね合わせるところがあったのだろうか。

『こころ』は、重い物語である。

読んでいると苦しくなるところもある。

でも、不思議なことに、ただ苦しいだけでなく、何かに包まれているような温かさも同時に感じる。

読んでいるあいだ、心が震え、やがてそこに温かい血が通い出し、やわらかさを取り戻したような感覚、とでも言えばよいだろうか。

僕はこの小説が、思いのほか自身の人間性の形成に大きな影響を与えていることを、知った。

哲学者の内山節氏は、『毎日小学生新聞』(2016年6月9日)の中で、次のように述べている。

「他人の気持ちを大事にするということは、他人の分からなさを大事にするということです」

僕はこの言葉に強い共感を覚えた。

そして僕が『こころ』から受け取ったものも、これだったような気がするのである。

「先生」はなぜ、自身の「いのち」そのものと言っても過言ではない経験を、誰にも語り得なかった経験を、「私」に語ったのか。

それは「私」が、あるいはそれと知らないままに、「先生」の「わからなさ」を大切にしていたからなのではないか。

僕の思想の根底には、次の二つの命題がある。

ひとつは、「すべての人は幸せになりたい」ということ。

もうひとつは、「人間は弱い生き物である」ということ。

ちなみに、ここでの「幸せ」を定義する必要はない。各自が「幸せ」と思うものが「幸せ」である。

学術的には認められないだろうが、そもそも僕はこの問題に関して学術的に論じる必要性を感じていない。

この二つの命題のもとにおいて、「善悪」という価値観は存在しない。

「善悪」はその社会や個人の倫理観に照らしたときに現われてくるものであって、絶対的な「善」も絶対的な「悪」も存在しない。

ただ、世の中で「悪」と呼ばれるものは、多くの場合、「幸せになりたい」と願う人間の「弱さ」から生まれてくる。

しかしそれはイコール「悪」なのではない。「幸せになりたい人間の弱さ」なのだ。

『こころ』を読んで、親友を死に追いやった「先生」のことを、単純に「悪人」として片付ける読者は少ないだろう。なぜなら、読者はそこに「幸せになりたい人間の弱さ」を認めるからである。

ところが現実社会においては、人々は驚くほど簡単に「悪人」をつくりあげる。

なぜそれができるのかといえば、その人を「悪人」にした背景としての状況は、なかなか表面化しないからである。

そのために、「のっぴきならない状況」に対した時の「人間の弱さ」というものを、私たちは感受することができない。

つまりそれは「わからない」のである。

この「わからなさ」にどのように対するのか。そこに、その人の人間性如実に表れる。

だから、この小説の中で悪人の象徴のように描かれている「叔父」も、決して本質的に悪人であるとは考えられていない。

それは「先生」が「私」に言った、次の言葉からも明らかだろう。

「……悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんなふつうの人間なんです。それが、いざというまぎわに、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」

だから「先生」は、もしこの「叔父」を許すことができていたならば、自らを殺すまでには至らなかったのかもしれない。

ある程度の年月を生きてきた人間ならば誰しも、人生に暗い影を落とすような、人に語れないような経験を持っているのではないだろうか。

それは語れないがゆえに、永遠に許されることがない記憶である。

しかし不思議なことだけれども、その許されざる記憶を、「物語」が許してくれる、ということがあるのではないだろうか。

小説の内容とは矛盾するかもしれない。しかし僕にとって、『こころ』は「許し」の物語なのである。

こゝろ (角川文庫)

こゝろ (角川文庫)

 

『明日クビになっても大丈夫!』(ヨッピー著、幻冬舎、2017年)

僕がこの本を読んでいることを僕の友人が知ったら、「『明日クビになっても』って、もうとっくにクビになっとるやないか!」と突っ込まれること請け合いだが(笑)、ちょっと気になっていたので読んでみた。

結論から言うと、これはオススメ。会社に勤めてるけど「なんだかなー」と思っている人はぜひ読むべし!

ただ、あんまり冗談の通じないカタブツを自覚している人は、絶対読んではいけない(笑)。途中で怒り出して速攻で焚書化することになるだろう。

内容は、「これを読んだら明日クビになっても大丈夫になる」ものではなく、「明日クビになっても大丈夫なようにこんなことしておくといいよー」というものである。念のため。

著者のことはツイッターなんかでちょくちょく見かけていて、やってることはめちゃくちゃだけど「この人絶対賢いやろ」というか、「実はよっぽど常識人やな」と思っていたところだったので、この本が出たのは僕にとっては「待ってました」のタイミングだった。

「『その人にしか出来ない大事な仕事』が社内にあるのなら、それを『誰にでも出来るように仕組みを作り替える』のが組織の論理で、これが『個人のやりがい』と明確に対立する概念になる」

というのは全くそのとおり。

ただ、会社と自分を一体化させて、「誰にでも出来る仕事」を嬉々としてこなせる人もいるので、そういう人は組織でもやりがいを感じられるかもしれない。

しかし著者は、「あのトヨタだってヤバいかもよ?」と、大企業でさえ決して盤石ではないことを指摘する。

だが、だからといって「今すぐ会社を辞めろ!」と言うのではない。

「会社にいながらでもしたいことはできるし、ほんでそっちでいけそうになってから辞めたらええやん」というわけである。

そしてそのプロセスでは、「『なりたいもの』じゃなくて『したい事』を考えて欲しい」と言う。

そう、仕事の本体は肩書きではなく、「何をするか」というその内容にほかならない。そしてそれをする毎日が、その人の人生になっていくのだ。

最後に、著者が生きるうえで大事にしているという三つのことが書かれている。

・会いたい人に会う
・行きたい所に行く
・やりたい事をやる

これはもちろん人によって違うだろう。だがいずれにしても、それを実現しようと思ったら「行動しなけりゃ何もはじまらない!」わけである。

この本は仕事論の書でありながら、立派な人生論の書でもあると僕は思う。

明日クビになっても大丈夫!

明日クビになっても大丈夫!

 

『近代日本人の発想の諸形式 他四篇』(伊藤整著、岩波書店、1981年)

「小説」を読むのは面白いが、「小説とは何か」を読むのもこれまた面白い。

「○○とは何か」というのは、一種の「定義づけの試み」である。「定義する」ということは、その対象を規定し、説明することだ。

正しい定義は、ひとつの対象に対してひとつだけ、と思われがちだが、実はそうではない。ひとつの対象に対して、複数の定義があってもよいのである。

もっと言えば、定義は「人の数だけあっていい」のであって、それはその人の「モノの見方」を提示することにほかならない。

だから「世界を変える」とか「革命」というのは、実は「定義の変更」であり、それを社会全体が認めれば「社会革命」になるし、個人的に承認すれば「自己変革」になる。

「定義」というと「絶対不変のもの」と思い込んでいる人もいるが、実はそうではなく、一時的にモノの見方を共有し、理解し合うための「約束事」として機能しているにすぎない。

このような観点から見れば、小説とは「世界と人間の定義づけ」の試みだと言ってよい。

ところで伊藤整は本書の中で、小説を次のように定義している。

「物語または叙述による生命の表現方法」

そしてさらに、こう述べる。

「生活者にとっては多くの場合意味を持たないと思われるものに文士は生命の表現の意味を見て、そういうものの組み合せの図式を考える」

実に魅力的な「小説の見方」ではないか。

とはいえ、このような伊藤の定義をもって、「小説とはこのようなものである」と考えてはならない。

ここで述べられているのは、あくまで「伊藤は小説をこのようなものとして見ている」ということにほかならないのだ。

ちなみに、コミュニケーションがうまくいかない場合というのは、ここに勘違いがあることが多い。

「相手の考えを認める」ということは、「相手の考えが正しいことを認める」ことではなく、「相手がそう考えていることを認める」ことである。

これを間違って認識していることで、「他者を認められない」という人はけっこう多い。

小説を読むという行為は、多様な人間の在り方を認める行為である。

ときどき、「小説をたくさん読んでいる」という人がものすごく不寛容だったりするのを見ることがあるが、そういう人はたぶん本当の意味で小説を「読んでいない」のではないだろうか。

小説という異世界を前にして、それを自分の世界から眺めているばかりで、そちら側に飛び込みはしないのである。

さて、伊藤の興味深い主張のひとつに、「芸または熟練が人間の救いになる」「孤独の中で、鍛錬によって才能を育て上げ、何人にも負けない存在となることを理想とする日本的な立身出世の認識形態」の存在がある。

伊藤は宮本武蔵源義経の物語を例に挙げ、近代文学においては幸田露伴の『風流仏』や『五重塔』などを挙げる。

しかし考えてみれば、僕らが夢中になった人気マンガにも、その思想は脈々と受け継がれている。「ドラゴンボール」しかり、「キャプテン翼」しかり、「幽遊白書」しかり(世代がバレる……)。

ここに登場する主人公は、本質的に孤独者なのだと思う(翼くんはそうでもないか)。そして伊藤はこう続ける。

「しかし彼の本質的姿勢は、調和性ある社会人ではない。孤独者が仮りにその技能によって社会に織り込まれたところの社会人なのである」

僕はここに、オタクとマンガの親和性を見る。

「孤独の中で芸を極める」マンガの主人公と、「孤独の中で何かに熱中する」オタクとしての自分。

あくまで「自分は他者と調和し得ない孤独者である」ということが、オタクの重要なアイデンティティであった気がする。

しかし最近のマンガは、かつてよりも「主人公と仲間とのつながり」が強調されているような気がしていて、それとともにオタクの在り方も変化してきているように思われる。

日本人の性質といえば「和を以て貴しとなす」がすぐ挙げられるが、その裏面には、このような「孤独者」としてのアイデンティティ、「究極の個人主義」があることも考え合わせなければならないだろう。

伊藤はこう述べる。

「音楽で言うと、日本には諸音の調和的構造なるハーモニイ形式はほとんどなく、メロディーの継起のみが主である、という点でもそれが確かめられるようである」

本書では他にも、江戸時代には作家が原稿料だけで生活することはできなかったこと、小説の文体が社会の価値観を反映していることなどを教えてくれて、実に興味深い。

ここでもう一度「小説の定義」の話に戻ると、伊藤は小説にとって大切なのはその形式ではなく、

「人間が自己とその在り方を認識し、そこから自分の生きる道を見出して行くことが根本的なことである」

と述べる。

これから小説を書きたいと思っている人にとっては、とても勇気づけられる言葉ではないだろうか。

タイトルは非常にカタイけれども、ものを書くことに興味がある人にはきっと面白く読めると思う。

近代日本人の発想の諸形式 他四篇 (岩波文庫 緑 96-1)

近代日本人の発想の諸形式 他四篇 (岩波文庫 緑 96-1)

 

『夜型人間のための知的生産術』(齋藤孝著、ポプラ新書、2017年)

「朝型生活」の素晴らしさが喧伝される中で、我々「夜型人間」はずいぶん肩身の狭い思いをしてきた。

思い切って朝型に切り替えようとして、挫折し続けている人も多いはずだ。

考えてみれば、「早起きをしようとしてできない」日々の繰り返しは、毎朝が「敗北と自己嫌悪からのスタート」になるわけで、精神衛生上、非常によくないわけである。

そんな話をある人にしたところ、「体質的に朝型が向かない人って本当にいるみたいですよ」と勧められたのが本書。まさに夜型人間垂涎の書と言えよう。

著者の齋藤孝さんが、本の表紙で「私も夜型です」と言っているが、いかにも朝型なイメージだったので、最初はちょっと信じ難かった。しかしページをめくってみると、彼はこう述べている。

「私がふだん眠りに就くのは、だいたい午前3時から3時半くらいです。平均6時間ほどの睡眠をとり、午前9時から9時30分ごろに目が覚める」(22頁)

意外なこともあるものだ。

齋藤さん曰く、「『規則正しい生活』が向かない人たちもいる」(23頁)。

実に心強い言葉ではないか。

さらに「デカルトの死因が『無理な早起き』にあった」(45頁)というエピソードも語られていて、「やっぱり早起きなんかしちゃダメだ!」とさえ思わせてくれる(笑)。

しかしタイトルでもある「夜型人間のための知的生産術」についてだが、正直なところ「それ、夜型とか関係ないんちゃうの?」というのが多い。

途中からオススメの本、映画、テレビドラマなどの紹介が延々続く箇所もあり、「ページ稼ぎ感」があったことは否めない。

齋藤さんは著書を量産していることで知られるが、一冊の内容をあまり濃密にしすぎないことが、その実現のコツなのだろう。

読者はむしろ彼のそういう部分をこそ、仕事のコツとして学ぶべきなのかもしれない。

……いや、たぶん僕の吸収力がなかっただけなのだろう。

「夜は素敵な時間です」(4頁)

「一人きりのナイスな時間」(85頁)

などという一見浅薄な表現も、夜の油断しがちな雰囲気を表現しているようで面白いし、「一気に書き上げてる感」が出ていて、多産な著者の仕事ぶりを垣間見ることができる。

「夜型」に特化した内容を期待している方々にはちょっと不満が残る内容かもしれないが、それとは関係なく、日常に役立ちそうな技術や考え方がたくさん紹介されているので、自分で使えそうな部分は実践しない手はない。

「1万個の作品がある人は、1万1個目を生み出すのはすぐにできますが、3個しか作品がない人がもう1個つくるとなると、かなり難しい」(147頁)

という指摘も実に腑に落ちる。

「量をこなさずに一流になる」なんてことはありえないわけで、その時間をしっかり取ることが大事になる。そしてそれは朝でも夜でもかまわないのだ。

「知性とは何でしょうか。それは、決めつけや思い込みに縛られず、視点を自由に移動することができることです」(159頁)

という言葉にも共感した。

僕の友人に、「学びの先にあるのは、やさしさだ」という名言を吐いた奴がいるが、それはつまり「自分の考え」に縛られることなく、「相手の視点」に自由に移動できるということでもある。

これがまさに知性であり、教養というものだろう。

朝型生活がもてはやされる中で、自己嫌悪に陥りがちな全国の夜型諸氏のためにも、これと同じテーマの本がもっとたくさん出てくるといい。

『時間とはなんだろう 最新物理学で探る「時」の正体』(松浦荘著、講談社、2017年)

「時間」という「実感はあるのに実体がない」ものの本質を、物理学の最先端から捉えようとするのが本書である。

基本的に物理学の話なので、当然ロジカルに展開するのだが、なにぶん一般人が考える物理の常識を軽々と超えていく世界。途中からは、かなり集中して読まないとついていけない(僕が凡庸なだけなのかもしれないけれど)。

「時間とは本来、時間と空間が一緒になった『時空』という枠組みの中で捉える必要がある……」(108頁)

このことは、僕が考える時間論においても前提になっているが、改めて最新の物理学の見地からこの事実を眺めてみると、また新しい発見がある。

また、ミクロの世界の話では、次のような事実が紹介されている。

原子核の周りを回る電子は飛び飛びの軌道にしか存在が許されない」(179頁)

僕はこのことについて、勝手に「素数との関係」を疑っている。

「これ以上割れない原子(飛び飛びになる電子の軌道)=その数でしか割れない素数(飛び飛びで現れる数字)」という共通点が、僕の中で自然と浮かび上がってくるのだ。

……いや、全く的外れな話かもしれないし、だからどうしたという話なのだが(笑)。

さらに難しい話になるが、素粒子とは「量子場」の波である、という話があって、しかもその波は「可能性のあるあらゆる運動が同時存在する」という波だという。

これだけ書いても全く意味不明であることは百も承知だが(笑)、そこから発想を広げることはできる。

僕らはつい固定観念に縛られがちだが、この「量子場」の波のように、「あらゆる可能性」を自分の思想の中に同時存在させれば、そこからの解放が可能になるのかもしれない。

具体的に言えば、あらゆる「かもしれない」を同時に想定する、ということである。

そしてこの世界とは、そうした「かもしれない」の積み重なりにほかならないのである。

このように、最新の物理学は、本当の意味で理解するのは大変な気がするけれども、そこからさまざまなインスピレーションを得ることができる。

社会人類学者のレヴィ=ストロースが指摘していたように、最新の科学は、太古の神話の内容と共通する部分を持っていたりするのだ。

「時間」についても、科学的な観点からその本質を突き詰めていけば、最終的に太古の神話的解釈に辿り着く、ということだって十分あり得るはずである。

本当に理解しようとするとなかなか骨の折れる本だが、それでもこの本ほどわかりやすく伝えようとしてくれる本はなかなかないと思う。

時間への関心に限らず、最新の物理学から眺めた世界に興味がある人は、ぜひ手に取ってみるといいと思う。

『漫画 君たちはどう生きるか』(吉野源三郎原作、羽賀翔一漫画、マガジンハウス、2017年)

異例のヒットを飛ばした話題の漫画。

ご存知のとおり、1937年に出版された『君たちはどう生きるか』を漫画にしたものである。

ちなみに僕は原作のほうは読んでいないので、これはあくまでこの漫画についての感想である。

結論から言うと大変おもしろかったのだが、やはり80年前に出版された内容なので、今の時代にそぐわない部分もある。

さらに当時の時代背景、すなわち「日中戦争の開戦とともに、いよいよ総力戦体制が本格化していった時期」に出版されたものである、ということも頭に入れたうえで読んだほうがいいと思う。

特にナポレオンの英雄性への言及には、太平洋戦争に向かっていく当時の日本の空気感を感じずにはいられない。

とはいえ、吉野は一面においてナポレオンの偉大さを讃えつつ、彼の為した事業については、真に値打ちのあるものではなかった、と結論づけている。

なぜならナポレオンは、自らの権勢のために、60万人以上の人々を無残にも死に追いやり、「多くの人を苦しめる人間となってしまった」のであり、「世の中の正しい進歩にとって有害なものと化してしまった」からである。

「英雄とか偉人とかいわれている人々の中で、本当に尊敬ができるのは、人類の進歩に役立った人だけだ。そして、彼らの非凡な事業のうち、真に値打ちのあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ」(222頁)

これを読んで、「では、人類の進歩とは何ぞや」という問いを持った人は多いだろう。

特に現代では、人類の進歩史観は後退し、むしろ「人類は退歩しているのではないか」という疑念が世界を覆いはじめている。

そのような視点でこれを読めば、80年前はまだ人類の進歩に希望を持てた時代だったのか、というような気もしてくる。

だが吉野はおそらく、ナポレオンの英雄性を肯定しながらも、ナポレオンの事業=戦争を否定することによって、反戦主義を明確に表明しようとしたのではないか。

つまり、「戦争をしている時点で、人類はまだじゅうぶん進歩していないのだ」ということを、当時の社会に投げかけようとしていたのではないか。

そしてナポレオンの英雄性をもって、われわれは「本当の進歩」に向かってゆかなければならない、と。

原作はずいぶん著名なので、このへんについてはすでにじゅうぶんな議論がなされていると思うけれども、それを見て書いたのでは個人的に面白くないので(笑)、僕はそれらを見ずに書くのである。

僕がなによりこの本が気に入ったのは、「人間の弱さ」から目を背けることなく、むしろその弱さから出発して、人間を論じているところである。

最後のほうにある、「人間の悩みと、過ちと、偉大さについて」は名文だと思う。ここを読むだけでも、この本を手にする価値があると僕は思う。

全文を紹介するわけにはいかないので、そのごく一部だけを、ここに引用しておくことにする。

「心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どいういうものであるべきかということを、しっかりと心に捕えることができる」(295頁)

人間が過ちを悔いるのは、そうではなく行動する力が自分にあるからだ、と吉野は言う。

人間の弱さは、人間の可能性の影である。

それは人間の存在の証であり、よりよく生きようとする人間の、立派さの証でもある。

漫画 君たちはどう生きるか

漫画 君たちはどう生きるか

 

『孤独論 逃げよ、生きよ』(田中慎弥著、徳間書店、2017年)

僕が田中慎弥氏のことをはじめて知ったのは、テレビで放映された芥川賞授賞式の映像でだった。

ふだんテレビに映し出される映像は、ほぼ例外なく予定調和的なものだが、この人の佇まいは、「そういうこととは全く関係なくそこにいる」という感じだった。

なんとなくテレビをつけて流し見していた僕は、「あ、人間がいる」と思って、しばらく映像に釘付けになった。

そこで彼はなにやら挑発的なコメントをしていたような気がするが、その言葉の内容とは裏腹に、「人のよさ」というとちょっと違うけど、実に人間的な何かがにじみ出ていたような気がする。

「この人絶対いい人やで」と勝手に思ったものである。

本書の内容は、そんな彼の、いわば「人生論≒職業論」である。

こういう内容は、いわゆる「人生の成功者」のような人が、高みから一般民衆に語りかける、というパターンになりがちだが、この本はそうではない。

確かに読者に語りかけているのだが、それは高みからではなく、「引きこもりだった自分」を通して、等身大の立ち位置から語られる。だからこっちはスッと共感できる。

「昔は引きこもりだったけど、今はそれを克服して、こんなに立派になりました」というような話を聞くことは多い。それはそれで得るものがあるだろう。

しかし彼の場合、ちょっと極端に言ってしまえば、今も「引きこもりのまま」作家をやっている。そして「それでいいのだ」と言う。

デビュー前だけでなく、作家になってからも、「葛藤や不安、悶々とした思い」を山ほど抱え続けているという彼の言葉は、多くの読者に安心感を与えるだろう。

彼が本書で主張するのは、「奴隷として生きるくらいなら、その場所から逃げ出して、自分の人生を取り戻せ」ということである。

奴隷というのは端的に言えば、「自分の人生において主体性を失った状況」とでも言えばいいだろうか。

そして現代の社会では、「放っておけばいつしか奴隷のような生き方に搦め捕られてしまう。だから、意識的にそこから逃げていかなければならない」というのである。

「逃げる」という言葉にはネガティブなイメージがつきまとう。まるで「悪いこと」であるかのような。

しかし彼はこう言って背中を押す。

「意地やプライドは余計な荷物だということを自覚してください。そんなものはどうでもいい。無様な姿をさらすのと引き換えに逃げられるのですから、安いものです。無責任のそしりを受けるのなら、それも言わせておけばいい。そんなことより、自分の命を守り、生き方を取り戻すほうがはるかに重要です。……大げさではなく、逃げることでしか救われない命もある。真剣に考えてほしいと切に思います」

これについて僕も全く同意する。

「逃げる」ことは、「生きる」ための力である。

そしてそんなふうに「逃げたい」と思える人はまだ救いがある、と彼は言う。

もっと危険なのは、「逃げる」という発想自体に思い至らず、「与えられた環境でどうにかやっていくしかない」とあきらめている人である、と。

彼の考えはこうである。

「自分が損なわれる、自分の人生を失う、それ以上の苦しみはありえない」

だから四の五の言わず、後先を考えずに逃げろ、と言うのである。そしてその後にある「孤独」と「不安」の中で、自分の人生を見つめ直せと。

「不安だろうと思います。それでかまわない。臆病風に吹かれてください」

そこで自分の目指すところが定まれば、「そこにたどりつくために費やした手間暇は、ひとつたりとも無駄にはならない」。

「結局のところ自分で学び取ったものでなければ、身にならない」

これは長い人生を生きるうえで、思いのほか重要なことではないだろうか。

「わたしにはできないことがたくさんあった。むしろ、できないことだらけです。その中から、なんとかやれることだけを探してやり続けたことになる。ねちっこくしがみつき、その代わり嫌なこと、気の進まないことには手を出しませんでした。その結果、いまの作家という職業、生き方にたどりついたわけです」

そしてそのプロセスにおいては、「ある種の身勝手さ、そして頑さを失わないこと」が重要だと彼は言うのである。

本書で書かれていることは、僕から見ると実にまっとうなことだし、彼はきわめて常識人だと思う。

しかし「本当にまっとうな人」ほど、不登校になったり、ひきこもったり、会社にずっと勤められない。それが今の日本の社会だろう。

そんな中で、自分は人生の袋小路にいると感じている人は、この本を手に取ってみるとよいと思う。

人間とは何か。

人間が生きるということはどういうことか。

その問いはあらゆる学問の根源であり、生きるうえで最も大切な問いのひとつである。

だがこの現代社会において、そんなことに思いを馳せながら、矛盾を抱えずに生きることはできない。

そこで矛盾を抱えずに生きているとすれば、それは自己の人間性をすでに損なっているのである。

孤独論 逃げよ、生きよ

孤独論 逃げよ、生きよ