『夜の来訪者』(プリーストリー著、安藤貞雄訳、岩波書店、2007年)
友人に勧められて読んだ本。
「20分で読めるから!」というのはウソだったが、面白いというのは本当だった。
最後のオチを言ってしまうとネタバレになってしまうので言わないが、僕はこのラストに覚えがある。
同じようなストーリーを見たことがあるというわけではなく、昔からよく想い描いていたイメージだからだ。
それは言葉で言ってしまうと、「まだ見ぬ過去の『事実』は、変更されうる」ということである。
それにまつわる僕の個人的なエピソードを話してみたいと思う。
あれは中学三年生の冬のことだった。
いわゆる「すべり止め」で受けた高校の受験結果を見に、友達らと朝からその高校へ向かっていた。昨夜降った雪が、まだうっすらと積もっていた。
試験の結果には自信があった。自分がメインで受ける高校より、2ランクほど偏差値の低い学校である。
若干雪の残る足下に気をつけて歩きながらふと思った。
「もしここで信号無視をしたり、ひろったお金をネコババするというような、いわゆる悪いこと(自分が罪悪感を抱いてしまうようなこと)をしたら、『合格』だった試験結果が『不合格』に変わってしまうんじゃないか……」
もちろん、ふつうに考えたらそんなことはありえない。試験結果はとっくに決まっていて、すでに掲示板に貼り出されているはずなのだから。
すでに決まってしまった事実が、僕の行動によって後から変わってしまう、なんてことは起こりっこない。その数字を僕がまだ確認していないだけなのだ。
理屈ではわかっている。しかし、そのことがなぜか腑に落ちないのである。
いま僕が行う行為によって受験結果が変わってしまうほうが、僕にとっては諒解できる感じがしたのである。
それは、僕がそれまでに受けてきた道徳教育や、「神様は絶対見ている」という、子どもなりの、というか子どもならではの根拠のない信心のせいだったのかもしれない。
しかし、確かに僕にはそう思えたのである。
ちなみに、試験の結果は幸い合格だった(別に悪いこともしなかったので)。
……とまあこれだけの話なのだが、しかしその時のような思いは、いまでもずっと変わらないまま残っている。いや、むしろ今のほうが強くなっている。
「まだ見ぬ過去の『事実』は、変更されうる」
僕がこのことをにわかに信じているのは、「量子論」についてにわかに知ったせいかもしれない。
にわかすぎるので語るのもはばかられるのだが(笑)、思いっきり端折って言ってしまえば、まだ見ていない事実はまだ決まっていなくて、自分がそれを見た瞬間に決まる、ということである。
思いっきりデフォルメした例えで言うと、夜空をながめたときに月が浮かんでいたとする。その月は、僕が月を見ているときは「そこにある」が、目を離しているときは居場所が「決まっていない」。それを見た瞬間に、居場所が決まるのである。
そしてこの不思議な現象を肯定するひとつの仮説が、「パラレルワールド(並行世界)」である。
つまり「事実」が変更されるのではなく、世界が思考や行動の選択肢の数だけ分裂し、その世界の数だけ「事実」が存在する、ということである。
もちろん僕らの生活する世界でそのような現象を確認することはできないが、ミクロの世界では、そのようなことが実際に起こっているというのである。パラレルワールドはもちろん仮説だが。
だとしたら、さっきのエピソードで、僕が試験結果の掲示板を見るまでは実はその結果が決まっていなくて、「目にした瞬間に決まる」ということがありえるのではないか?
合格した世界と不合格した世界が両方存在し、自分の行動がその世界を生み出しているとしたら。
……と理屈で説明しようとしても、やっぱりうまくいかない(笑)。
とにかく僕がこの本を読んで感じたことは、「未来は変えられる」ということである。
でも、僕の感想から受けるであろうイメージと、この本の内容はあまりにも関係なさすぎるので、その点はよくよくご注意くださいませませ。