希望が閉ざされたら、本を開こう。

生き方を問い直す読書感想文

『こころ』(夏目漱石著、角川文庫、2004年)

『こころ』との出会いは、高校の教科書に載っていたものを読んだのが最初であった。おそらく、僕と同年代の人々は大抵そうなのではないだろうか。

それは思春期の若者の心に、鮮烈な衝撃を与えた。教科書の文章というカテゴリーを超えて、僕の心を捉えた。

「自分のことが書いてある」と、僕は本気で思ったのだった。

国語のテストでも『こころ』についての出題があった。当時の僕は国語を最も得意としていたので(算数は散々だった)、その時もかなりいい点数を取った。

しかし国語の先生はその「点数」ではなく、「回答」がすばらしかった、と言ってほめてくれたのである。これがとてもうれしかった。

調子に乗った僕は、「作家になれますかね?」と返した。

その時の先生の、苦虫を噛み潰したような顔は今でも忘れない。

さて、そんな思い入れのある作品『こころ』を、40歳になってから再び読み直したわけである。

しかし多くの文学作品や映画作品がそうであるように、それにふれた時の感動というのは、その作品の出来・不出来以上に、その時の受け手の感受性に負うところが大きい。

その証拠に、「一番好きな作品は何ですか?」と聞かれると、多くの人は、自分が思春期の頃に出会った作品を挙げるのである。

だから僕は『こころ』についてもきっとそうだろう、と内心思っていた。つまり、当時ほど心を動かされることはないだろう、と思いながら読み始めたのであった。

ところがである。

物語が始まってまだ間もない次の部分で、いきなりぐっと胸に込み上げるものを感じた。

「いたましい先生は、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだからよせという警告を与えたのである。ひとのなつかしみに応じない先生は、ひとを軽蔑するまえに、まず自分を軽蔑していたものとみえる」

この部分に心を動かされるのは、物語の結末を知っているからかもしれない。それとも、自分自身に重ね合わせるところがあったのだろうか。

『こころ』は、重い物語である。

読んでいると苦しくなるところもある。

でも、不思議なことに、ただ苦しいだけでなく、何かに包まれているような温かさも同時に感じる。

読んでいるあいだ、心が震え、やがてそこに温かい血が通い出し、やわらかさを取り戻したような感覚、とでも言えばよいだろうか。

僕はこの小説が、思いのほか自身の人間性の形成に大きな影響を与えていることを、知った。

哲学者の内山節氏は、『毎日小学生新聞』(2016年6月9日)の中で、次のように述べている。

「他人の気持ちを大事にするということは、他人の分からなさを大事にするということです」

僕はこの言葉に強い共感を覚えた。

そして僕が『こころ』から受け取ったものも、これだったような気がするのである。

「先生」はなぜ、自身の「いのち」そのものと言っても過言ではない経験を、誰にも語り得なかった経験を、「私」に語ったのか。

それは「私」が、あるいはそれと知らないままに、「先生」の「わからなさ」を大切にしていたからなのではないか。

僕の思想の根底には、次の二つの命題がある。

ひとつは、「すべての人は幸せになりたい」ということ。

もうひとつは、「人間は弱い生き物である」ということ。

ちなみに、ここでの「幸せ」を定義する必要はない。各自が「幸せ」と思うものが「幸せ」である。

学術的には認められないだろうが、そもそも僕はこの問題に関して学術的に論じる必要性を感じていない。

この二つの命題のもとにおいて、「善悪」という価値観は存在しない。

「善悪」はその社会や個人の倫理観に照らしたときに現われてくるものであって、絶対的な「善」も絶対的な「悪」も存在しない。

ただ、世の中で「悪」と呼ばれるものは、多くの場合、「幸せになりたい」と願う人間の「弱さ」から生まれてくる。

しかしそれはイコール「悪」なのではない。「幸せになりたい人間の弱さ」なのだ。

『こころ』を読んで、親友を死に追いやった「先生」のことを、単純に「悪人」として片付ける読者は少ないだろう。なぜなら、読者はそこに「幸せになりたい人間の弱さ」を認めるからである。

ところが現実社会においては、人々は驚くほど簡単に「悪人」をつくりあげる。

なぜそれができるのかといえば、その人を「悪人」にした背景としての状況は、なかなか表面化しないからである。

そのために、「のっぴきならない状況」に対した時の「人間の弱さ」というものを、私たちは感受することができない。

つまりそれは「わからない」のである。

この「わからなさ」にどのように対するのか。そこに、その人の人間性如実に表れる。

だから、この小説の中で悪人の象徴のように描かれている「叔父」も、決して本質的に悪人であるとは考えられていない。

それは「先生」が「私」に言った、次の言葉からも明らかだろう。

「……悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです、少なくともみんなふつうの人間なんです。それが、いざというまぎわに、急に悪人に変わるんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」

だから「先生」は、もしこの「叔父」を許すことができていたならば、自らを殺すまでには至らなかったのかもしれない。

ある程度の年月を生きてきた人間ならば誰しも、人生に暗い影を落とすような、人に語れないような経験を持っているのではないだろうか。

それは語れないがゆえに、永遠に許されることがない記憶である。

しかし不思議なことだけれども、その許されざる記憶を、「物語」が許してくれる、ということがあるのではないだろうか。

小説の内容とは矛盾するかもしれない。しかし僕にとって、『こころ』は「許し」の物語なのである。

こゝろ (角川文庫)

こゝろ (角川文庫)