『時間の比較社会学』(真木悠介著、岩波書店、2003年)
このような非常に充実した内容の本を読むと、赤線だらけになってとっても困る。
中でもとくに興味深く読んだのは、近代化における「貨幣」と「時間」の役割の共通性である。
本来、あらゆる「モノ」そのものに普遍的な「価値」を与えることはできない。
なぜなら、それは使う人や、その用途によって、その「モノ」の価値は変化してしまうからだ。砂漠で遭難した人にとっての「水」が、「ダイヤモンド」以上の価値を持つように。
しかし、そうしたモノにさも「固有の価値」があるかのように決められるのが「価格」である。
これによって、あらゆる「固有の価値を持ったモノ」たちは、すべて「交換可能なモノ」であるかのように認識され、扱われるようになっていく。
それは人間そのものも例外ではない。
こうして「貨幣」は、あらゆるモノの「唯一性」を喪失させていく。
また「時間」にも、本来「普遍的な価値」を与えることはできない。
同じ一瞬でも、互いの愛を確かめられた瞬間と、ぼんやり空をながめているときの一瞬は、決して等価とは言えない。
しかしそれを計量し数値化することによって、それは単なる「一分」という客観的な価値に変換される。
それによって、まるであらゆる時間は等価として「交換可能」であるかのように認識されるようになる。
こうして時間もまたその「唯一性」を喪失させていく。
そしてこのことが、現在の資本主義社会を支えている。
真木悠介はこのことについて次のように述べる。
「ウェーバーがこれを『典型的に資本主義の精神』とみなしたベンジャミン・フランクリンの『時は金なり』という生活信条をまつまでもなく、時間を費やす、時間をかせぐ、時間をむだにする、時間を浪費する、時間を節約する等々といった時間の動詞自体が、市民社会の<功利的実践>(コシーク)の日常感覚における時間と貨幣とのこのような同致をすでに物語っている」(300頁)
「時間が他の時間のうちにたがいに等価をもちうるという実践的還元のうえに、一般化された商品交換のシステムとして市民社会の総体は存立している」(300頁)
このことが、僕たちの「生の充実」を喪失させているという。
そしてそれを取りもどすことができるのは、「具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された『自我』の牢獄が溶解しているとき」だという。
独特な文章を書く著者なので、人によって好き嫌いはあるかもしれないが、私たちがどのような世界で生きているのかを知るうえでぜひ一読してみたい本である。