『希望のしくみ』(アルボムッレ・スマナサーラ・養老孟司著、宝島社、2004年)
『希望のしくみ』というタイトルの秀逸さに、読み終わってから改めて感心した。
宗教というと、なんだかあいまいなもののように感じてしまう。だが、スリランカ仏教界長老のスマナサーラさんは、仏教の教えはすべて論理的に説明することができると断言している。
ちなみにスマナサーラさんの説く仏教は、2500年前から続く最初の仏教「テーラワーダ仏教」である。
そして、養老さんは科学的アプローチで、スマナサーラさんが語るのと同じ真理に到達している。
二人の対話の中で、世の中の真理、幸せとは何かという、普遍的なテーマに対して極めて論理的な見解が語られる。
「希望」というものを、ただの精神論で片付けるのではなく、「しくみ」としてやさしく理解させてくれる良書だと思う。
そしてこの本のいいところは、哲学的テーマを扱っているにも関わらず、決して重くならないこと。
二人とも、いい意味でくだけているというか、あっけらかんとしている。
このへんの雰囲気が、キリスト教と仏教の大きな違いのような気がする。
たとえば、僕にとって印象的だったこんな言葉。
「入学試験の価値観なんかにも通じるんだけど、『できた方がえらい』っていうのは大間違い(笑)。そんなの、人間の価値とは関係ないんですよ。できようが、できまいが、たんなる状態の違いでしかないんだから」(養老孟司)
「だから、もっと人生ふざければ幸せになりますよ(笑)。そんな深刻なことじゃないですよ。世界は単純ですからね」(スマナサーラ)
特に、スマナサーラさんの次の言葉は、いろいろ悩みを抱えている人に紹介すると、すこぶる評判がいい。
「まず自分が楽しくなりなさい。それから皆にも楽しみを与えることだ。それ以外には何もないよ」(スマナサーラ)
このシンプルさが、人の心を軽くしてくれるのかもしれない。
真面目な人ほど、他者に貢献することは、自分を犠牲にすることだと思っていたりする。
でも本来の仏教における「利他行」とは、「自分のやりたいことをやることで、それが他者のためにもなる」ことであり、決して自分が犠牲になることではないという。
もちろんひと口に「仏教」と言っても、その考え方は実にさまざまなので一概には言えないけれど、少なくとも苦しんでいる人に寄り添う思想でなければ、それは仏教ではあり得ない。
その意味で、やはりこの本は優れた仏教書だと言えるのではないだろうか。
既存の価値観を大胆にひっくり返してくれる二人の対話。
善い悪い、正しい正しくないは別にして、考え方の幅を広げるためにも、ぜひ一読をオススメしたい本である。
『三国志 英雄ここにあり』第一巻〜第六巻(柴田錬三郎著、ランダムハウス講談社、2008年)
「人を、一度信頼されたならば、よけいな忠告はなさらぬことです」
比類なき偉丈夫である張飛に対して、全く怖じることなく、すでに君主の風格を感じさせる劉備。僕も死ぬまでにこんなセリフを一度は言ってみたいものである。
柴田錬三郎の『三国志』には、こういう含蓄のあるセリフがたくさん出てくる。
「一時の義憤で、軽挙を為すのは、小人であるぞ」
無実の罪で捕えられた師を救おうとする劉備に対し、盧植が諌めて言った言葉。
正義感や一時の激情によって、大志を閉ざすような行為をするのは、小人物の行いであると彼は言う。
会社で忖度しているしがないサラリーマンに見えても、実は大志を遂げんとする臥龍かもしれないので注意が必要である。
「ただ、好機いまだいたらず、臥龍は雲を待って、うずくまっているだけなのである。——いまに、みよ!」
まだ一国の主になる前の曹操の思いを表現した言葉。
そう、さえない毎日を送っていても、この言葉を心の中でつぶやけば、天下三分の計はもはや成ったも同然。
「いまに、みよ!」
ことあるごとに口にしていきたい。
ところで、柴田錬三郎氏の『三国志』は複数の出版社から出ているが、僕がオススメしたいのは、ここで紹介しているランダムハウス講談社版のもの。
何がいいって、正子公也さんの描く口絵がいい。
まさに「英雄ここにあり」というサブタイトルを象徴する、英雄たちの勇士が実にかっこいい。これがものすごく気持ちを高めてくれるのだ。
さて、三国志の魅力と言えば、やはり「人間と人間のぶつかり合い」であり、その中で紡がれる「人間の運命」の不思議であろう。
三国志は長い物語である。人間の栄枯盛衰、さらには国家の栄枯盛衰までが描かれる。
ある意味で人生の縮図であり、そこから僕らはいろんなことを学ぶことができる。
もちろん、これは史実を下敷きにしつつも、『三国志演義』をもとにしたフィクションにほかならない。
ただ、だからこそ、人間の運命の真実を、より象徴的に描き出すことに成功している、とも言えるのではないだろうか。
今回、僕が「ああ、確かにそういうことはあるなぁ」と思った言葉に、次のものがある。
「人間と申すものは、身分上下を措き、その初対面に於て、まなこを観た一瞬にして、志が合うか合わぬか、判ることであります。同明相見、同音相聞き、同志相従うのは、その一瞬に決定いたすもの。……まことに、申しわけないこと乍ら、わたしの心は、動きませぬ」
これは、諸葛亮孔明が曹操と初めて出会い、その幕に招かれた際に言った言葉である。
第一印象というのは、「相手を直観的に捉えた時の印象」とも言える。その直観は、あらゆる利害・損得を排して、その人との相性を見通す。
ただ、物語を読み進めていくと、「ああ、孔明は劉備に仕えたばかりに、こんな苦労をすることになったのではないか……」と思わずにはいられない。
もし魏の曹操に、あるいは呉の孫権に仕えていれば、苦もなく中華全土を統一していたのではないか、と。
しかしもっとリアルにイメージしてみると、曹操に仕えている孔明も、孫権に仕えている孔明も、やはり幸せではないような気がするのだ。
「全力を出し切れない」というか、「自分を活かしきれない」のではないか。
その主が劉備だったからこそ、数々の困難に遭いながらも、孔明の持つ叡智の限りを、出し尽くすことができたのではないだろうか。
もしかすると、人間にとって最も大きな欲望は、「幸せになりたい」ということよりも、「自分を活かし切りたい」ということなのかもしれない。
だから孔明は、自分が「幸福に生きられる」と思える君主よりも、自分が「全力を出し切れる」と思える君主を選んだのではないか。
だからやっぱり、孔明が劉備を選んだのは正しかったと思うし、孔明は結果的に幸せだったのだと思う。
そしてもうひとつ、次の言葉も印象に残った。
別の言葉で言えば、「両雄並び立たず」であろうか。
僕はこれを読んで、単純に「どうしたって合わない人はいるんだ」と得心して、安心した気持ちになった。
どれほど仲良くなろうと努力しようが、天が二人のあいだを分かつならば、もはや手のほどこしようはない。粛々と運命に従うしかない。そして、それでよいのだ。
三国志は中国の戦乱の世の物語だが、人間の本質はどこでも変わらない。むしろ戦乱の世だからこそ、それがあらわになる、とも言える。
だから、それを別世界の話として読むのではなく、自分の毎日の生活の中に、すなわち自分の人生に生かしていきたいものである。
第四巻では、ついに希代の天才軍師・諸葛亮孔明の出廬である。
圧巻だったのは、孔明の師である司馬徽が、劉備と関羽に、孔明のすごさを語るシーン。
簡単に説明すると、こうである。
司馬徽によると、孔明は自らの器を、管仲、楽毅という、春秋戦国時代の伝説的英雄にたとえているという。関羽はそれを聞いて、「さすがにそれは言い過ぎではないか」といぶかる。それに対して司馬徽は、微笑しながら言う。
「確かに孔明が、管仲、楽毅と自分を比べるのは少し間違っているかもしれない。比べるべき古人は、別にいる」
関羽が「それは誰でしょうか?」と聞くと、司馬徽は次のように答えた。
「周の八百年を興した姜子牙、漢の四百年をさかんにした張子房——この二人に、孔明を比べたならば、正しかろうと存ずる」
この言葉をきいて、関羽は、唖然となった。姜子牙、張子房といえば、管仲、楽毅よりも、さらに高峰と仰がれる、群雄諸侯が欲する軍師の理想像だったのである。
……僕はこのエピソードが大好きだ。
「うんうん、そうですよね……ってもっとすごかったんかい!」
というノリツッコミ的展開。
孔明が「千年に一人」と言われる軍師であることが強調される場面である。
僕はこのシーンを読んで、これによく似た、あるエピソードを思い出した。
この日本でも、まさにこのような話が全国的に語られたことがあったのだ!
「コントローラーのボタンを1秒間に16回連打する」という「16連射」で一世を風靡した人だ。
さて、そのエピソードの内容とは、こうである。
……あるとき、次のようなウワサが、まことしやかに流れ始めた。
誰もが、「やっぱりな」「そんなわけないと思った」と、彼を罵倒した。
そして彼の「16連射」は、確かにウソだったのである!
本当は「16連射」ではなく、「32連射」だったというのだ……。
「もっとスゴかったんかい!!」
……というエピソードが、まことしやかに全国に広まったのであった。
もちろんこの「32連射」というのは作り話なのだが(16連射は本当!)、要するに「それぐらいすごい」という話である。
高橋名人の32連射はともかく、孔明は、もしかすると本当に、姜子牙、張子房に比される天才だったのかもしれない。そしてこの『三国志』では、まさにそのような存在として描かれている。
『三国志』において、諸葛亮孔明はまぎれもなく、物語の主人公のひとりなのである。
第五巻では、三国志のハイライトのひとつ「赤壁の戦い」が描かれる。
この戦いは「曹操VS孫権・劉備連合軍」という形にはなっているが、孫権軍と劉備軍は一心同体というわけではない。
「周瑜(孫権軍)VS諸葛亮(劉備軍)」という、もうひとつの戦いが陣中で展開することになる。
その戦いにおいては、諸葛亮孔明が連戦連勝し、結果、周瑜は心労から寿命を縮めることになる。
さて、この「赤壁の戦い」だけではなく、諸葛亮孔明の神算鬼謀はことごとく功を奏し、やがて劉備は蜀の国を手に入れる。
まさに「神」のごとき働きを見せる孔明だが、そのすごさは「知能」だけでは語れない。
それだけではなく、自分の知略を実行する「自信」と「決断力」こそが、孔明のすごさの神髄なのかもしれない。
というのも、僕らだって「いいアイデアを思いつく」ことはあるのだ。
仕事でもそうだし、テレビのニュースなんかを見ながらでもそうだが、「もっとこうしたらいいのに」と言う人はたくさんいる。
ところが、それを実践する人は果たしてどれだけいるだろうか。
しかも孔明のような軍師の立場は、ひとつの失敗が全軍の命運を尽きさせることもあり得る。いわば「賭け」の連続である。
そのような中で奇計をことごとく実践し、成功させるというのは、並の精神力ではとうていなし得ないことだろう。
だから孔明の活躍を見ていると、「自分がこうだと思ったことは、失敗を恐れずにやってみよう」という気になってくる。
だって、いくら孔明が天才的な頭脳を持っていたとしても、つねに「いや、本当にうまくいくかな……」とそれを実践しなければ、結局はただの凡夫と変わらない。
「そう思ったならば、そうするべき」なのだ。
あともうひとつ、『三国志』を読んでいて感じるのは、「ああ、国が滅びる時っていうのはこういう感じなんだな……」ということ。
これについては、物語の序盤のほうがより具体的に描かれている。
乱世とは多くの国が滅びる時代でもある。
そしてもし今の日本が、この物語の中に登場したとしたら、間違いなく「あ、この国は近いうちに滅びるな」と誰もが思うことだろう。
その理由は数え上げればキリがないが、二つだけ挙げるならこれだろう。
ひとつは、権力者の横暴、私利私欲をむさぼろうとする様を、誰も止められなくなっていること。
もうひとつは、そのことによって倫理観が腐敗し、理が通らなくなっていること。
物語の中でこれを見れば、まぎれもなく亡国の兆しである。
ところが、これが現実世界で起こると、その明らかな「亡国の兆し」を、僕らは容易に見過ごす。なんとなく惰性で、「今のままの世の中が続く」と思い込んでいるのだ。
しかし僕は、世界の現状を「乱世」として捉えておいたほうがいいと思っている。統計的な観点も含めて、千年単位の未曾有の変化がやって来ているのである。これはまぎれもない事実である。
さて、そんな世の中で、僕は、あなたは、孔明のような良き軍師たり得るだろうか。
そのような意味でも、『三国志』はいまこそ読み直す価値のある古典である。
そして最終巻となる第六巻。
劉備、関羽、張飛ら、物語の冒頭から登場した英雄たちが、次々と命を落とす。
臥竜・孔明と相並ぶ異才、鳳雛・龐統も天命には逆らえず、戦死した。
「戦いつづけることだけが、渠(かれ)らの人生であった。それが乱世に生れた者の宿命であった」
人は生まれる時代を選べない。
十分な生を全うしようと思えば、その時代を十全に生きようとするしかない。
「あるいは、別の時代に生まれていたならば……」という妄想は、頭の中で展開するのみである。
しかし、どの時代にあっても変わらない真理もある。
「人は生まれ、そして必ず死ぬ」ということである。
劉備は死の床にあって、「……人のまさに死せんとするや、その言や善し——と申す。さいごの言葉を、ききおいて頂こう」と言い、孔明に遺言を託す。
人が死に際して述べる言葉は、私利私欲を離れた貴いものであるから、心して聞くべし……くらいの意味だろうか。
しかし、ふと思う。
死に際するまでもなく、私利私欲を離れて生きられないものだろうか……、と。
それがほとんど叶わないことは、ごく一部の例外を除いて、人類の歴史が証明している。
それでも、「そのように生きたい」と思いながら生きるのと、そうでないのとでは、天地の開きがあるだろう。
著者の柴田錬三郎は、この『三国志』の中で、諸葛亮孔明こそ、「そのように生きた人」として描いたように見える。
彼は孔明についての思い入れを、次のように語っている。
「実は、私は、『三国志』を書こうとした時、すでに、その時、筆を擱(お)くべき最後の場面を、想い泛(うか)べていたのである。いささか誇張していえば、私は、孔明が出師の表をしたためて、魏と決戦すべく、成都を出発する場面を描きたいために、『三国志』を書きはじめた、といえるのである。『英雄ここにあり』という題名は、その場面のために、つけた」
孔明の生き方をどう評価するかについては、読者諸氏におまかせするとして、よりよい生を全うするための手段として、「模倣すべき先達を見つける」ことが有効であることは、多くの人が同意するところではないだろうか。
端的に言えば、「よき師を持つ」ということである。
そして、平時には平時の師が、乱世には乱世の師がいてしかるべきである。
だから僕は、二人の師を持つことをオススメしたい。一人の師からの学びを、もう一人の師が、より深いものとしてくれるだろう。
この『三国志』に登場する英雄たちの中から、自ら仰ぐべき「師」を探してみるのも一興だろう。もちろんそれは「乱世の師」である。
「義のために生き、義のために死んだ」関羽がいる。
「治世の能臣、乱世の奸雄」と評された曹操がいる。
そのような視点で、『三国志』を読んでみるのも面白いだろう。
『「世界の神々」がよくわかる本 ゼウス・アポロンからシヴァ、ギルガメシュまで』(東ゆみこ監修、造事務所著、PHP研究所、2005年)
「世界の神々」がよくわかる本 ゼウス・アポロンからシヴァ、ギルガメシュまで (PHP文庫)
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いやー、昔の人たちの想像力って、ほんまにすごいなと改めて感心した。
どーやったらそんなん思いつくん?というような摩訶不思議な逸話が盛りだくさん。
その神話の世界観は、数々の小説、映画、ゲームなどでおおいに引用され、描きだされていることは言うまでもない。
現代の世界では、世の中の不思議の多くが、科学の力などによって解明され、わかるようになってきた。
でもその「わかる」ということが、人間の想像力をいかに奪ってきたかということを考えると、やはり人類はそれだけの代償を払ってきたのだと思わざるを得ない。
世の中の不思議そのものが、人間の好奇心から生み出されたものだとすれば、それが解き明かされていくのは人類の宿命でもあるのだが。
この本を読んだからというわけではないのだが、僕はできるだけ、「わからない」ということを意識するようにしている。
そもそも、この宇宙がどのように誕生したのかさえ明確にはわかっていないし、量子論や相対性理論のように、とうてい僕らの常識の及ばない世界が、確かに存在している。
そんな中で、「これは絶対にそうだ」と断言したり、あまりにも理路整然と説明できてしまうことなんて、むしろいかがわしいもので、そこには人間の利害が絡んでいることも多い。
特に一番わかった気になってはいけないのが、「人間の気持ち」というものだろう。
これはあたりまえのことだが、相手の心の中なんて、どうしたって正確にわかるわけがない。
だからこそ人は相手を思いやり、相手の立場にたって考え、想像力を働かせようとする。
自分が相手と同じ経験をしていれば、より同じ気持ちを共感できる。そうでない場合は、今までの自分の経験を相手の立場に置き換えて、気持ちを想像するしかない。
だから自分と全く違う立場や考え方を持つ人の気持ちは理解しにくいし、共感するのも難しい。
そのいろんな立場や考え方の経験を補うのが、本とか映画などの創作物なんじゃないかと思う。
それでも、自分が一生に見れる映画や本の数など微々たるものだし、自分自身の経験の量なんて、さらに知れている。
だからこそ、「わからない」と思うことが大事だと思う。
自分自身のほんのわずかな経験の中に相手を当てはめて「わかった」気持ちになるなんて、ほんとに愚かなことだ。
「わかった」ような気がしても、どこかで「ちがうかもしれない」と思うことで、ゆらゆらと気持ちを漂わせていたい。
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『夜の来訪者』(プリーストリー著、安藤貞雄訳、岩波書店、2007年)
友人に勧められて読んだ本。
「20分で読めるから!」というのはウソだったが、面白いというのは本当だった。
最後のオチを言ってしまうとネタバレになってしまうので言わないが、僕はこのラストに覚えがある。
同じようなストーリーを見たことがあるというわけではなく、昔からよく想い描いていたイメージだからだ。
それは言葉で言ってしまうと、「まだ見ぬ過去の『事実』は、変更されうる」ということである。
それにまつわる僕の個人的なエピソードを話してみたいと思う。
あれは中学三年生の冬のことだった。
いわゆる「すべり止め」で受けた高校の受験結果を見に、友達らと朝からその高校へ向かっていた。昨夜降った雪が、まだうっすらと積もっていた。
試験の結果には自信があった。自分がメインで受ける高校より、2ランクほど偏差値の低い学校である。
若干雪の残る足下に気をつけて歩きながらふと思った。
「もしここで信号無視をしたり、ひろったお金をネコババするというような、いわゆる悪いこと(自分が罪悪感を抱いてしまうようなこと)をしたら、『合格』だった試験結果が『不合格』に変わってしまうんじゃないか……」
もちろん、ふつうに考えたらそんなことはありえない。試験結果はとっくに決まっていて、すでに掲示板に貼り出されているはずなのだから。
すでに決まってしまった事実が、僕の行動によって後から変わってしまう、なんてことは起こりっこない。その数字を僕がまだ確認していないだけなのだ。
理屈ではわかっている。しかし、そのことがなぜか腑に落ちないのである。
いま僕が行う行為によって受験結果が変わってしまうほうが、僕にとっては諒解できる感じがしたのである。
それは、僕がそれまでに受けてきた道徳教育や、「神様は絶対見ている」という、子どもなりの、というか子どもならではの根拠のない信心のせいだったのかもしれない。
しかし、確かに僕にはそう思えたのである。
ちなみに、試験の結果は幸い合格だった(別に悪いこともしなかったので)。
……とまあこれだけの話なのだが、しかしその時のような思いは、いまでもずっと変わらないまま残っている。いや、むしろ今のほうが強くなっている。
「まだ見ぬ過去の『事実』は、変更されうる」
僕がこのことをにわかに信じているのは、「量子論」についてにわかに知ったせいかもしれない。
にわかすぎるので語るのもはばかられるのだが(笑)、思いっきり端折って言ってしまえば、まだ見ていない事実はまだ決まっていなくて、自分がそれを見た瞬間に決まる、ということである。
思いっきりデフォルメした例えで言うと、夜空をながめたときに月が浮かんでいたとする。その月は、僕が月を見ているときは「そこにある」が、目を離しているときは居場所が「決まっていない」。それを見た瞬間に、居場所が決まるのである。
そしてこの不思議な現象を肯定するひとつの仮説が、「パラレルワールド(並行世界)」である。
つまり「事実」が変更されるのではなく、世界が思考や行動の選択肢の数だけ分裂し、その世界の数だけ「事実」が存在する、ということである。
もちろん僕らの生活する世界でそのような現象を確認することはできないが、ミクロの世界では、そのようなことが実際に起こっているというのである。パラレルワールドはもちろん仮説だが。
だとしたら、さっきのエピソードで、僕が試験結果の掲示板を見るまでは実はその結果が決まっていなくて、「目にした瞬間に決まる」ということがありえるのではないか?
合格した世界と不合格した世界が両方存在し、自分の行動がその世界を生み出しているとしたら。
……と理屈で説明しようとしても、やっぱりうまくいかない(笑)。
とにかく僕がこの本を読んで感じたことは、「未来は変えられる」ということである。
でも、僕の感想から受けるであろうイメージと、この本の内容はあまりにも関係なさすぎるので、その点はよくよくご注意くださいませませ。
『時間の比較社会学』(真木悠介著、岩波書店、2003年)
このような非常に充実した内容の本を読むと、赤線だらけになってとっても困る。
中でもとくに興味深く読んだのは、近代化における「貨幣」と「時間」の役割の共通性である。
本来、あらゆる「モノ」そのものに普遍的な「価値」を与えることはできない。
なぜなら、それは使う人や、その用途によって、その「モノ」の価値は変化してしまうからだ。砂漠で遭難した人にとっての「水」が、「ダイヤモンド」以上の価値を持つように。
しかし、そうしたモノにさも「固有の価値」があるかのように決められるのが「価格」である。
これによって、あらゆる「固有の価値を持ったモノ」たちは、すべて「交換可能なモノ」であるかのように認識され、扱われるようになっていく。
それは人間そのものも例外ではない。
こうして「貨幣」は、あらゆるモノの「唯一性」を喪失させていく。
また「時間」にも、本来「普遍的な価値」を与えることはできない。
同じ一瞬でも、互いの愛を確かめられた瞬間と、ぼんやり空をながめているときの一瞬は、決して等価とは言えない。
しかしそれを計量し数値化することによって、それは単なる「一分」という客観的な価値に変換される。
それによって、まるであらゆる時間は等価として「交換可能」であるかのように認識されるようになる。
こうして時間もまたその「唯一性」を喪失させていく。
そしてこのことが、現在の資本主義社会を支えている。
真木悠介はこのことについて次のように述べる。
「ウェーバーがこれを『典型的に資本主義の精神』とみなしたベンジャミン・フランクリンの『時は金なり』という生活信条をまつまでもなく、時間を費やす、時間をかせぐ、時間をむだにする、時間を浪費する、時間を節約する等々といった時間の動詞自体が、市民社会の<功利的実践>(コシーク)の日常感覚における時間と貨幣とのこのような同致をすでに物語っている」(300頁)
「時間が他の時間のうちにたがいに等価をもちうるという実践的還元のうえに、一般化された商品交換のシステムとして市民社会の総体は存立している」(300頁)
このことが、僕たちの「生の充実」を喪失させているという。
そしてそれを取りもどすことができるのは、「具体的な他者や自然との交響のなかで、絶対化された『自我』の牢獄が溶解しているとき」だという。
独特な文章を書く著者なので、人によって好き嫌いはあるかもしれないが、私たちがどのような世界で生きているのかを知るうえでぜひ一読してみたい本である。
『みんな、どんなふうに働いて生きてゆくの?』(西村佳哲著、弘文社、2010年)
自分の「生き方」や「働き方」に悩んだり迷ったりしている人は、まず最初に手に取っていい一冊。
魅力的な働き方を実現している9名のスピーカーの語りを、著者の西村さんがまとめている。
スピーカーの働き方や考え方はそれぞれに実に多様で、他の人とは全く正反対のことを言っていたりもする。
僕がいいと思うのは、著者の西村さんがそれらの語りを引き出し、最終的に何も結論を出そうとしないこと。
そう、人にはそれぞれの役割があり、働き方も人それぞれなのである。
だがもしあえて共通点を挙げるならば、それは彼らの「働き方」が、彼ら自身の「生き方」と分かれていないところだろう。
だからこそ、その語りは結果的に血の通った名言の宝庫になっている。
どのスピーカーの話に心を動かされるかは、本当に人それぞれだと思う。
そして同じ人が読んでも、読むタイミングによってそれは変わってくるだろう。
最後に、それぞれのスピーカーの語りの中で心を惹かれた言葉を少し紹介しておきたい。
「ヤップ島以来、お金のことを考えていたんです。お金ってけっこう関係性を切るんじゃないかって。お金があれば、誰に会わなくても、口もきかなくても旅が出来る」(友廣裕一さん)
「昔は、なにか独創的で面白いことをやらなければならないと思い込んでいた。大学もそういう教育だったし。でも、状況が必要としているものを考えて、その中で自分に出来ることを素直にやればいいんだ」(馬場正尊さん)
「この前、統合失調症をもった19歳の青年が病棟で大暴れして。その時に叫んでいた言葉が忘れられないんですよ。『ここには人間がいない!』って」(向谷地生良さん)
「消費者というのは横着やと思う。いつも『何してくれんねん』『俺を満足させろ』って。でもそんな人間関係って、消費以外の世界ではありえへんやないですか」(江弘毅さん)
「木は根があって立っていますね。いろんな根があると思うけど、その中で一番太くて、人が立つために大事なのは、自己肯定感やと思う」(松木正さん)
『緑の哲学 農業革命論 自然農法 一反百姓のすすめ』(福岡正信著、春秋社、2013年)
何もしない運動
人類の未来は今、何かを為すことによって解決するのではない。
何もすることは、なかったのである。
否! してはならなかった。
強いて言えば〝何もしない運動〟をする以外にすることはなかった。
今まで人類は多くのことを為してきたが、何を為し得ていたのでもなかった。
一切は無用であった。
この書は〝何もしない運動〟の一環である。
自然農法を通して、社会と人間の近代化を痛烈に批判する本書。
著者によれば、
「期待した巨大都市の発達や、人間の文化的、経済的活動の急激な膨張が人間にもたらしたものは、人間疎外の空しい喜びであり、自然の乱開発による生活環境の破壊でしかなかった」。
自然に仕える者としての百姓こそが、人間本来の生き方であるとする彼の思想は、東日本大震災を経て、さらにその輝きを増しているように見える。
「自然界では、すべてが関連し何一つ不要なものはなく何一つ孤立したものもない。自然には必要とか不必要という言葉はない、すべては同一体の一部にしかすぎない」
「自然の生命は、動物(人や家畜)と植物と微生物(土)の間を次々と循環しているにすぎない」
だがこのような感覚を、都会の暮らしの中で感じることは難しい。
だからこそ、人々はいま、田舎との交流や移住という形で、自らの生命性を回復させるためのきっかけをつかもうとしているのかもしれない。
もちろんそれは、自然とのつながり、他者とのつながりを回復することと同義である。
なんとなく「田舎で農業をしたい」と感じている人々にとっては、その意味を具体的に認識させてくれる、バイブル的な一冊になりそうだ。
『常世の舟を漕ぎて 水俣病私史』(緒方正人語り、辻信一構成、世織書房、1996年)
水俣病によって尊敬する父を亡くした、緒方正人さん。
彼自身もまた同じ病に冒されながら、国家・行政・企業と闘い続けた。
ついには自ら水俣病の認定申請を取り下げ、その後の狂いの時を経て、「チッソというのはもうひとりの自分のこと」という境地に至った。
まさに菩薩のような人だ。
彼が重視する「個人」とは、近代的な「バラバラの個人」のことではなく、「自然や共同体と一体となった個人」であり、それは巨大で無機質な「システム」に対する「人間」のことを意味している。
現代人は、自らがシステムの中に取り込まれた存在であることを自覚し、そのうえでいかに「人間」として生きるかを常に問い続けなければならない。
ここで問われている「システム」と「人間」の対立は、今日の原発の問題に象徴的に表れている。
原子力発電を推進させているのは、「人が人を人と思わなくなった」社会の存在にほかならない。
「ここが昔の人たちと今の人たちの決定的な違いです。今五○年、百年先のことを考えている人間が日本に何人おるでしょうか」
「チッソの責任、国家の責任と言い続ける自分をふと省みて、『もし自分がチッソや行政の中にいたなら、やはり彼らと同じことをしていたのではないか』と問うてみる。すると、この問いを到底否定しえない自分があるわけです。それは自分の中にもチッソがいるということではないでしょうか」
緒方さんのこの問いかけは、僕たち一人ひとりに向けられている。
『無力』(五木寛之著、新潮社、2013年)
『無力』。
「ムリョク」ではなく「ムリキ」と読む。
著者の五木さんによれば、「ムリョク」と「ムリキ」ではその意味するところも全く異なるという。
五木さんは『他力』という本も書かれているが、この「他力」と「無力」の関係を、『無力』の中で次のように述べている。
「自力であれ他力であれ、そのあいだで揺れ動く状態を否定的にとらえるのではなく、人間はその二つのあいだを揺れ動くものであるととらえる。自分はどちら側なのだ、と頑張るのではなく、肩の力を抜いて、不安定な自分のふらつきを肯定するのです。これが『無力』という考えの根本です」
確かに、「自力」と「他力」は、突き詰めて考えると明確に分けることはできない。
五木さんが著書の中で述べているように、
「よく、人間は自立しなければいけない、といいますが、人間が真っ直ぐ立っていられるのは、重力という他力によって支えられているからでしょう」。
このような話を屁理屈として捉える人もいるかもしれないが、僕からすると世の中は万事、このような関係の中で動いているように思われる。
だからこそ、たびたび盛り上がる「自己責任論」も、世の中の実際というものを無視した、極めて空しいものに感じられる。
それはさておき、『無力』の中で僕が「へぇ~」と面白く思ったのは、五木さんの次の説である。
「宗教というのは、開祖の死んだ年齢に関係があるのではないか」
こういう視点には初めてお目にかかった。
三十代という若さで磔刑死したキリスト。
六十歳くらいまで生きたムハンマド。
八十歳という長命だったブッダ。
「青春の宗教、壮年の宗教、老年の宗教」というものがあり、「開祖でさえも、到達した年齢なりの思想というものがある」という五木さんの考え方は、実に地に足のついた、深い人間理解に基づいているように見える。
「もし、キリストが八十歳まで生きて、ブッダが三十歳ぐらいで死んでいたなら……」
歴史にもしもはないというが、五木さんのこの問いかけは、人間の思想がどういうものかを僕たちに改めて考えさせてくれる。
いわゆる聖人と言われる人でも、年齢によって思想は変化してゆく。
「ブレない人などいるものか」
五木さんの言葉は、僕たちのような凡人に寄り添い、安心を与えてくれるのである。
『ニンジンの奇跡 畑で学んだ病気にならない生き方』(赤峰勝人著、講談社、2009年)
ニンジンの奇跡 畑で学んだ病気にならない生き方 (講談社+α新書)
- 作者: 赤峰勝人
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/06/19
- メディア: 新書
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無農薬、無化学肥料の「循環農法」で野菜を育てる百姓、赤峰勝人さん。
彼によれば循環農法とは、「自然の掟に従う農法」のことであり、「人間の人智が及ばない自然の真理や法則にしたがって、作物が育つ手伝いをする農法」であるという。
そこでの主体は人間ではなく、自然や作物なのだ。
こう書くとなにやらスピリチュアルな、非日常的な世界をイメージするかもしれない。
だがこの本を読んでみればわかるように、こちらのほうが「あたりまえ」なのであって、異常なのは近代農法のほうであった。
彼によれば、雑草は土の栄養分を奪ってしまうのではなく、その土に足りない栄養分を作り出す役割を持って生えてきているというのだ。
「私は畑に生える草を『神草』と呼ばせてもらっています。土に足りないミネラルを補うために、そこに必要な草しか生えてこないのです。……土ができてくるとやがてイネ科の草やスギナは姿を消し、今度はナズナやハコベがいっぱい出てきます。カルシウムたっぷりの豊かな土になった証拠です」(140頁)
にもかかわらず、雑草は邪魔なものだと決めつけ、田んぼや畑を豊かにしてくれる生命を、農薬や化学肥料によって皆殺しにしてきたのが近代農法であった。
彼の言葉にひとたび耳を傾けると、世界が全く違って見えてくるから不思議だ。
そのへんに生えてる雑草や小さな花も、「こいつはどんな役割を持って生えてきたんだろう?」と思って見てみると、とても興味深い。
「傲慢」の「傲」という字は、「人が土から放れる」と書くのだと彼は言う。
太陽のエネルギーを人間が利用できる形に転化してくれる、植物の不思議なチカラ。
「酸素をつくれるのは、植物の緑だけだということを、みなさん忘れていませんか」(142頁)
という赤峰さんの素朴な問いかけは、近代という時代の盲点を突いている。
農業に関心のある人だけでなく、人間らしく生きたいと願うすべての人にオススメしたい一冊。
ニンジンの奇跡 畑で学んだ病気にならない生き方 (講談社+α新書)
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『コーオウンド・ビジネス 従業員が所有する会社』(細川あつし著、築地書館、2015年)
経営の知識がない僕にもスッと読めてしまって、しかもワクワクする素晴らしい内容。
コーオウンド・ビジネスのメリットが説得力を持って書かれていて、しかもその事例がまた魅力的なので、思わず引き込まれてしまう。
コーオウンド・ビジネスとは、「社員が自分の会社の大株主になることによって、オーナーになってしまう」というビジネスモデルである。
だがその本質は、そこで醸成される「オーナーシップ・カルチャー」という、言語化困難な気運、気風、文化である。それは一種のコミュニティ意識でもある。
その新しいカルチャーが、社員の生き方そのものをも変えてゆく。
「社員たちはコーオウンド・ビジネス・モデルに身を浸して、『仕事とは何なのか』『自分は仕事を通じて何をしたいのか』『しあわせとは何なのか』という根源的な質問に直面する」(192頁)
ボブ・ムーアが創業した「ボブズ・レッド・ミル」なんかは、まさにコミュニティそのもの。
「実際に働く人たちから隔離された所有が問題だ」
というボブの言葉は、コミュニティの問題を考えるうえでも実に本質的だ。
「共有から私有へ」という近代の流れがコミュニティの解体を促したとすれば、コーオウンド・ビジネスは、それを逆流されるひとつの潮流だとも言える。
ふつうの会社では、みんな一緒に働いていたとしても、結局「個人の時間」を生きているにすぎない、という場合がほとんどではないだろうか。
自分の出世のために、同じ会社で働く同僚を蹴落とすようなことも起こる。
だが、会社そのものを共有するコーオウンド・ビジネスにおいては、そのようなことをする動機が生まれない。
本当の意味で「時間を共有できる」ビジネスモデルなのかもしれない。
本書では、コーオウンド・ビジネスの導入を疑似体験できる章が設けられていて、それがまたわかりやすい。読者の理解を助けるために、実にいろんな工夫がなされている。
僕が特にお気に入りなのは、「クリフ・バー」を創業したエリクソンの「赤い道」「白い道」のエピソード。いま人生の岐路に立っている、というような人にはぜひ読んでほしい。
競争の中に身を投じ、ひたすら「目的地」を目指す「赤い道」。
道に迷いながらも、自ら決断しながら「道」そのものを楽しむ「白い道」。
そしてそのどちらを選ぶべきかを教えてくれるのが「ガット・フィーリング」である。
僕なりの言葉で表現すれば、「直感」とか「魂の声」ということになるだろうか。
ありきたりな言葉で恐縮だが、本当に素晴らしい一冊だなあと感じた。
仕事について考えるすべての人に、自信を持ってオススメしたい。
『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』(保坂和志著、草思社、2007年)
ふだんお世話になっている方が、「時間論を書かれている小説家の本がありますよ」と貸してくれた一冊。
とっても面白くて、一気に読み切ってしまった。
著者の保坂さんは小説家だが、書かれている内容は哲学そのもの。
それも単に論理を重ねるのではなく、「論理的ではない自分の心の動きを解明する」かのような思考が展開されている。
中でも僕が気に入っているのは、「プー太郎が好きだ!」の章。
「規則正しく労働することに本質的に向いていない人が、世の中には必ずいるものなのだ」
なんと力強い言葉だろうか!(笑)。
彼は親しいプー太郎友達らに嫌われたくないと言うが、その気持ちにもとっても共感する。それは僕自身が半分以上プー太郎だからなのだが。
「自分が人間として大切にされていると感じることができていないから自分以外の人間を大切にすることができない」
「『人間』というのはトータルな存在であって、分解されてしまったらもう『人間』ではない。症例というのは人間を分解した観点だ」
といった彼の人間観は、近代社会が犠牲にしてきたものを、近代社会が生み出してきた闇を浮き彫りにする。
保坂さんの展開する時間論もとっても面白い。
「時間について考えるには、混乱や不明確さを敢えて許容するタイプの方が有効なのではないか」
という保坂さんの考え方に僕も同意する。
保坂さんのトークライブの動画がユーチューブなどに上がっているようなので、関心のある方は観てみてはどうだろうか。
『火の鳥 <鳳凰編>』(手塚治虫著、朝日ソノラマ、1978年)
浦沢直樹さんをはじめ、多くの漫画家のバイブルとなっている、手塚治虫『火の鳥』シリーズの一冊。
悪行の限りを尽くしてきた我王を旅の共につけた良弁僧正。ある村で我王は冤罪によって囚われるが、良弁僧正は彼を助けることなくその村を去る。その理由を語った良弁僧正の言葉にグッときた。
「おまえがあの苦しい試練にたえぬいたとき きっとおまえの心の中にほんとうの仏がつくられるだろうと思った……… おまえが生んだ仏はおまえだけのものだ だれにもまねられぬ だれにもぬすまれぬ」
ある人が「仏教は苦しんでいる人のための宗教だ」と言っていたけれど、この「火の鳥」シリーズもまた、人間の苦しみや人間の弱さとともにある作品だと思う。
「永遠の生命」を象徴する「火の鳥」。
その存在を軸にしながら、物語は時間を超越した視点で描かれる。
そのような世界観の前では、時代ごとに変化してゆく「倫理」などは背後へと退く。
その時にようやく「生命とはなにか」「生きるとはどういうことか」という存在の本質が前面に現れてくる。
僕も一時期、「永遠に死なないっていうのは、いったいどんな感じなんだろう」とよく想像した。
その時に思ったのは、「きっと感情がなくなるんじゃないか」ということだった。
永遠の命を持つことで永遠の時間を手にしたとしたら、あらゆるものごとが「今でなくてもよい」ことになってしまう。
どんなものごとも、「いつか」やればいいのであって、「いま」やる必然性はもはやない。
それは言わば「現在の喪失」である。
そうである以上、あらゆるものごとに一喜一憂することもない。
その意味で、感情というものは「有限性」に由来している。
生きることの喜びも悲しみも、有限の生命の中にしかない。
そして人間は、その「有限性」の連なりとしての「永遠性」があることも知っている。
そうした「死」と「再生」の繰り返しとしての「永遠の生命」。
それを象徴しているのが「火の鳥」なのだろう。
『いのちの営み、ありのままに認めて ファミリー・コンステレーション創始者 バート・ヘリンガーの脱サイコセラピー論 完全復刻版』(バート・ヘリンガー著、谷口起代訳、東京創作出版、2016年)
大学院の学友が、訳者として本を出版した。
タイトルは、『いのちの営み、ありのままに認めて』。
いのちの営み、ありのままに認めて: ファミリー・コンステレーション創始者 バート・ヘリンガーの脱サイコセラピー論 完全復刻版 (東京創作出版叢書)
- 作者: バート・ヘリンガー,谷口起代
- 出版社/メーカー: 東京創作出版
- 発売日: 2016/06/01
- メディア: 単行本
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訳者が述べているように、ここでの<いのち>とは、いわゆる個人としての「自己」のことではない。
「自己」の背後にある、「私たちが抗うことのできない大きな力」、「すべての固有の生命の源」、それを<いのち>と呼んでいる。
本書で語られるのは、その<いのち>の営み、つまり「魂の秩序」についてである。
それはふだん、常識や道徳といった「社会の秩序」に覆い隠されているが、にもかかわらず、私たちの人生に決定的な影響を及ぼしている。
「社会の秩序」の中では理不尽としか思えない出来事も、「魂の秩序」から見れば、それは起こるべくして起こったものかもしれない。
いくら自分が正当だと考えたところで、
「問題は、魂がそのように見るだろうかということです」。
このような別次元の視点は、自分の生き方を変える力をも与えてくれるだろう。
「私は個人のみに焦点を合わせず、関係性の中に織り込まれている個人を見ます」
と著者であるヘリンガーは言う。
しかもその関係性の中には、この世を去った死者も含まれている。
彼の視点には、単なるセラピーに留まることのない、「人間存在の本質」への洞察が含まれている。
人生や人間関係に行き詰まりを感じている人、現代社会のあり方に疑問を抱いている人、そして「幸せとは魂の次元で到達するものです」という彼の言葉に関心を持つ人には、特にオススメしたい。
この本を読み終わったとき、おそらく多くの人は、同じ世界の中に、全く新しい景色を発見することになるだろう。私もその一人である。
永久保存版としたい一冊。
いのちの営み、ありのままに認めて: ファミリー・コンステレーション創始者 バート・ヘリンガーの脱サイコセラピー論 完全復刻版 (東京創作出版叢書)
- 作者: バート・ヘリンガー,谷口起代
- 出版社/メーカー: 東京創作出版
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『小説家・ライターになれる人、なれない人 あなたが書けない本当の理由』(スーザン・ショフネシー著、宮崎伸治訳、同文書院、1998年)
「書くということは他の何よりも難しいのです。少なくとも書き始めることはそうです」(クリスティン・ハンター)
文章を書く人の多くが、この言葉に何度もうなずいているのが目に見えるようである(笑)。
ここでも強調されているように、難しいのは「書くこと」というより、「書き始めること」なのだ。
だがこれはたぶん、文章を書くことに限らず、多くのことに共通するのではないか。
そこでこの一冊。
やるべきことがあるけれども、なかなか腰が上がらないという方は、ぜひ身近に置いておくとよいだろう。
次に紹介するいくつかの抜粋だけでも、ちょっとやる気が湧いてくる、かもしれない(笑)。
「ノアの方舟は素人が造りました。タイタニック号は専門家が造りました。ですから専門家を待たないように」(マレイ・コーエン)
「どうやってするかって? 手探りでやるだけさ」(アルベルト・アインシュタイン)
「書く(あるいはライターになる)ことについて唯一確かなこと、それは、何にしても書かなければならないということです」(ジャネット・フレイム)
「人は、自分が本当にやりたいことをやっているときは、いい人なのです」(サミュエル・バトラー)
「私は、たとえ数行しか書けなくても、毎日2時間書くことにしています。……書きたいと思うまで待っていると決して何も書けないのです」(デーブ・バリー)
「誰も完全なライターが現れることなど期待していません」(スーザン・ショフネシー)
「私たちは、快適さと贅沢が人生で最も必要なものであるかのように振る舞います。しかし、本当に幸せになるために必要なものは、自分が打ち込めるものを持つことなのです」(チャールズ・キングレー)
書く人のモチベーションを上げるとともに、ちょっとした人生訓にもなっているこの本。
内容に同意する、しないに関わらず、それで執筆が少しでも進むのならば、この本は間違いなく「買い」でしょう。
しかし残念ながら今は絶版らしく、中古しか手に入らない。
タイトルをもう少しわかりやすくして文庫化したら、けっこう売れる気がするけどなあ。
小説家・ライターになれる人、なれない人―あなたが書けない本当の理由
- 作者: スーザンショフネシー,Susan Shaughnessy,宮崎伸治
- 出版社/メーカー: 同文書院
- 発売日: 1998/06
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