希望が閉ざされたら、本を開こう。

生き方を問い直す読書感想文

『モンテーニュ エセー抄』(ミシェル・ド・モンテーニュ著、宮下志朗訳、みすず書房、2003年)

本書を読み始めたのは、夏目漱石の『こころ』を読み終えた直後だったのだが、この偶然が、驚きの発見をもたらした。

それは、本書の次の部分を読んだ時のことである。

「実際、悲しみの力が極度のものとなると、魂そのものが大いに驚愕して、その自由な活動がさまたげられる。たとえば、突然にひどく悪い知らせが舞いこんだりすると、われわれは、なにかに抑えつけられて、身が凍ってしまったような気がして、少しも身動きできなくなるけれど、それから悲嘆の涙にくれて、気持ちがゆるんでくると、なんだかすっと解き放たれたような気持ちというか、ゆったりした気分になるではないか」(9頁)

これを読んですぐに思い浮かんだのが、『こころ』の中で、「先生」が「K」の自殺に遭遇した場面である。

「私の目は彼の部屋の中を一目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ちすくみました」(夏目漱石『こころ』角川文庫、2004年、279頁)

「事件が起こってからそれまで泣くことを忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われることができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらいくつろいだかしれません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤いを与えてくれたものは、その時の悲しさでした」(同284頁)

『こころ』の中でも特に印象的なシーンだが、ここでの表現を、上記のモンテーニュの言葉と比べてみてほしい。

漱石の文章に対応する形で、モンテーニュの文章をふたつに分けて比較してみる。

「実際、悲しみの力が極度のものとなると、魂そのものが大いに驚愕して、その自由な活動がさまたげられる。たとえば、突然にひどく悪い知らせが舞いこんだりすると、われわれは、なにかに抑えつけられて、身が凍ってしまったような気がして、少しも身動きできなくなるけれど、」(『エセー』)

「私の目は彼の部屋の中を一目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立ちに立ちすくみました」(『こころ』)

「それから悲嘆の涙にくれて、気持ちがゆるんでくると、なんだかすっと解き放たれたような気持ちというか、ゆったりした気分になるではないか」(『エセー』)

「事件が起こってからそれまで泣くことを忘れていた私は、その時ようやく悲しい気分に誘われることができたのです。私の胸はその悲しさのために、どのくらいくつろいだかしれません。苦痛と恐怖でぐいと握り締められた私の心に、一滴の潤いを与えてくれたものは、その時の悲しさでした」(『こころ』)

まさに同じことを表現しているように見える。

このことに気づいて、僕は、「漱石モンテーニュの『エセー』を読んでいたのではないか?」と思い、少し調べてみた。

すると案の定である。

五之治昌比呂の論文によれば、

漱石はChubb編纂のモンテーニュ『エセー』の英訳本を留学中に購入し所蔵していた(「図書購入ノート」の259番)」

というのだ(「『吾輩は猫である』の二つの逸話の材源について」『西洋古典論集』2016年、51頁)。

僕の知る限り、このモンテーニュ『エセー』の記述と、夏目漱石『こころ』の「K」の事件の記述の類似性を指摘したものはない。

そうだとすれば、これはけっこうな大発見だと思うのだが……どうだろう(笑)。

もしかすると、若き漱石が『エセー』を読んで、「いつかこの『悲しみ』を、小説の中で表現してみたい」と思っていて、それが実現したのが『こころ』の中でだったのかもしれない。

もちろん、単なる偶然だと言うこともできるだろう。

けれど、もしも漱石が『エセー』を読んでいたのなら、その記憶が潜在意識となって残っていた可能性もある。

いずれにせよ、僕にとってはとても面白い発見ではあった。

さて、肝心の『エセー』の内容にはほとんどふれていないのだが(笑)、ここでこれ以上書くとものすごく長くなってしまうので、今回はこのへんで終えておこうと思う。

「おいおい、どっちかと言えば『こころ』の方がメインになっとるやないかい!」というお叱りが飛んできそうだが、どうかご容赦いただきたい。

その本をきっかけに、別の本の内容が深められていくというのも、読書の醍醐味のひとつではなかろうか。

少なくともモンテーニュは、そういう「自由な読書」「自由な文筆」を寛容に受け入れてくれるような気がする。

モンテーニュエセー抄 (大人の本棚)

モンテーニュエセー抄 (大人の本棚)

 
こゝろ (角川文庫)

こゝろ (角川文庫)