『無力』(五木寛之著、新潮社、2013年)
『無力』。
「ムリョク」ではなく「ムリキ」と読む。
著者の五木さんによれば、「ムリョク」と「ムリキ」ではその意味するところも全く異なるという。
五木さんは『他力』という本も書かれているが、この「他力」と「無力」の関係を、『無力』の中で次のように述べている。
「自力であれ他力であれ、そのあいだで揺れ動く状態を否定的にとらえるのではなく、人間はその二つのあいだを揺れ動くものであるととらえる。自分はどちら側なのだ、と頑張るのではなく、肩の力を抜いて、不安定な自分のふらつきを肯定するのです。これが『無力』という考えの根本です」
確かに、「自力」と「他力」は、突き詰めて考えると明確に分けることはできない。
五木さんが著書の中で述べているように、
「よく、人間は自立しなければいけない、といいますが、人間が真っ直ぐ立っていられるのは、重力という他力によって支えられているからでしょう」。
このような話を屁理屈として捉える人もいるかもしれないが、僕からすると世の中は万事、このような関係の中で動いているように思われる。
だからこそ、たびたび盛り上がる「自己責任論」も、世の中の実際というものを無視した、極めて空しいものに感じられる。
それはさておき、『無力』の中で僕が「へぇ~」と面白く思ったのは、五木さんの次の説である。
「宗教というのは、開祖の死んだ年齢に関係があるのではないか」
こういう視点には初めてお目にかかった。
三十代という若さで磔刑死したキリスト。
六十歳くらいまで生きたムハンマド。
八十歳という長命だったブッダ。
「青春の宗教、壮年の宗教、老年の宗教」というものがあり、「開祖でさえも、到達した年齢なりの思想というものがある」という五木さんの考え方は、実に地に足のついた、深い人間理解に基づいているように見える。
「もし、キリストが八十歳まで生きて、ブッダが三十歳ぐらいで死んでいたなら……」
歴史にもしもはないというが、五木さんのこの問いかけは、人間の思想がどういうものかを僕たちに改めて考えさせてくれる。
いわゆる聖人と言われる人でも、年齢によって思想は変化してゆく。
「ブレない人などいるものか」
五木さんの言葉は、僕たちのような凡人に寄り添い、安心を与えてくれるのである。