希望が閉ざされたら、本を開こう。

生き方を問い直す読書感想文

『火の鳥 <鳳凰編>』(手塚治虫著、朝日ソノラマ、1978年)

浦沢直樹さんをはじめ、多くの漫画家のバイブルとなっている、手塚治虫火の鳥』シリーズの一冊。

悪行の限りを尽くしてきた我王を旅の共につけた良弁僧正。ある村で我王は冤罪によって囚われるが、良弁僧正は彼を助けることなくその村を去る。その理由を語った良弁僧正の言葉にグッときた。

「おまえがあの苦しい試練にたえぬいたとき きっとおまえの心の中にほんとうの仏がつくられるだろうと思った……… おまえが生んだ仏はおまえだけのものだ だれにもまねられぬ だれにもぬすまれぬ」

ある人が「仏教は苦しんでいる人のための宗教だ」と言っていたけれど、この「火の鳥」シリーズもまた、人間の苦しみや人間の弱さとともにある作品だと思う。

「永遠の生命」を象徴する「火の鳥」。

その存在を軸にしながら、物語は時間を超越した視点で描かれる。

そのような世界観の前では、時代ごとに変化してゆく「倫理」などは背後へと退く。

その時にようやく「生命とはなにか」「生きるとはどういうことか」という存在の本質が前面に現れてくる。

僕も一時期、「永遠に死なないっていうのは、いったいどんな感じなんだろう」とよく想像した。

その時に思ったのは、「きっと感情がなくなるんじゃないか」ということだった。

永遠の命を持つことで永遠の時間を手にしたとしたら、あらゆるものごとが「今でなくてもよい」ことになってしまう。

どんなものごとも、「いつか」やればいいのであって、「いま」やる必然性はもはやない。

それは言わば「現在の喪失」である。

そうである以上、あらゆるものごとに一喜一憂することもない。

その意味で、感情というものは「有限性」に由来している。

生きることの喜びも悲しみも、有限の生命の中にしかない。

そして人間は、その「有限性」の連なりとしての「永遠性」があることも知っている。

そうした「死」と「再生」の繰り返しとしての「永遠の生命」。

それを象徴しているのが「火の鳥」なのだろう。

火の鳥〈鳳凰編〉 (1978年)

火の鳥〈鳳凰編〉 (1978年)