希望が閉ざされたら、本を開こう。

生き方を問い直す読書感想文

『自分の中に毒を持て あなたは〝常識人間〟を捨てられるか』(岡本太郎著、青春出版社、1993年)

僕の人生に最も大きな影響を与えた一冊。

当時勤めていた会社を辞めたのも、今思えばこの本の影響が大きかったような気がする。それだけ大きな力を持った本だが、逆に言えば危険な本でもある。

やっぱり人にはそれぞれの性質というものがあるから、岡本太郎のような生き方、考え方が合わないという人はいるだろう。いや、そっちの方が多数派だと思う。

しかしこの本は、おそらくそういう人をも巻き込むだけの熱量を持っている。

その熱量に浮かされて、「よし、オレもいっちょ会社を辞めて危険な道に進むぞ!」と会社を辞めて、後になってから、「オレ、なんであんなことしちゃったんだろう……」というケースも、なきにしもあらずだろう。

でも、僕はそれでいいのだと思う。

この本を読んでもそういう道に進まない人は進まないし、進む人は進む。それは出会ったタイミングにもよるだろうが、結局そういう「運」のようなものによって決まってしまう。それが人生というものだ。

ただ、この本と出会ってしまったということは、きっとそういう生き方を望んでいる部分が、どこかにあるに違いないのだ。

さて、編集の仕事などをしている人なら気づくと思うが、本書には、いわゆる「表記のゆれ」が多い。

たとえば、「僕」と「ぼく」、「ダメ」と「駄目」、「本当」と「ほんとう」など、ひとつの言語に複数の表現が使われており、表記が統一されていないのだ。

これは一般的には「よくないこと」とされる。基本的に、ひとつの作品の表記は統一されていなければならず、それは校正の段階で直される。

表記のゆれをなくす姿勢は、読者の読みやすさのためには基本的に正しいと思う。しかし、これを無条件に徹底しようとする風潮に、僕は以前から不満を抱いている。

というのも、ひとつの作品の中でも、作者や登場人物の感情の変化によって、その文脈にふさわしい表記は変化してしかるべきだと思うからである。

「僕はダメだなあ」と「僕は駄目だなあ」というのは、同じようでいて同じではない。「本当のこと」と「ほんとうのこと」もそうだ。

主語の統一についてもそうで、ふだん「僕は……」と言っている人が、感情が高ぶった際に「俺は……!」となるのは、むしろ自然なことだと思う。

それを「同一作品の中での主語の表記は統一すべき」と言って同じにしてしまったのでは、重要な心情の変化を「なかったこと」にしてしまうことになるおそれがある。

そして本書は、芸術家の著書である。

この本もひとつの芸術作品だとするならば、そんな画一的な表記統一をされた作品は、それはもう命を失った、死んだ芸術だ。ただの「商品」だ。

表記統一は「商品」として成立させるための作法であって、それは決して芸術のためのものではない。

おそらく本書の編集者は、そのこともわかったうえで、この本の「表記のゆれ」をそのままにしておいたのではないだろうか。

さて、ここで岡本太郎の熱い言葉をいくつか紹介しておきたい。

「死に対面する以外の生はないのだ」(19頁)

「ほんとうに生きようとする人間にとって、人生はまことに苦悩にみちている。矛盾に体当たりし、瞬間瞬間に傷つき、総身に血をふき出しながら、雄々しく生きる。生命のチャンピオン、そしてイケニエ。それが真の芸術家だ」(180〜181頁)

「ぼくがここで問題にしたいのは、人類全体が残るか滅びるかという漠とした遠い想定よりも、いま現時点で、人間の一人ひとりはいったい本当に生きているだろうかということだ」(216頁)

これらの言葉を自分自身に突き当てれば、きっと新しい生き方が目の前にぱあっと開けてくるだろう。

「もちろん怖い。だが、その時に決意するのだ。よし、駄目になってやろう。そうすると、もりもりっと力がわいてくる。食えなけりゃ食えなくても、と覚悟すればいいんだ。それが第一歩だ。その方が面白い」

なんとも危険で、なんとも魅惑的な本だ。

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)

 
自分の中に毒を持て<新装版> (青春文庫)

自分の中に毒を持て<新装版> (青春文庫)